広寒宮

アマチュア作家・雨伽詩音の活動報告その他諸々

【エッセイ】図書館という思い出

その図書館との別れはいつまでも私の心に尾を引き続けるのだろうと思った。かつて住んでいたアパートメントから徒歩五分圏内にあった図書館へゆく道すがらにある、家の軒先に群れ咲く花々は私を本の花園へと誘う蝶のようだった。冬になれば山茶花が色鮮やかな衣をまとい、2月頃になると白梅の香りが匂やかに香った。


その図書館は最近の小ぎれいな図書館とは異なって古めかしく、二階建てのこじんまりとした建物からなっていて、都心の真ん中にあってわざわざこの小さな図書館を利用しようという奇特な人は少なかったのか、いつも人影がまばらだった。家から歩いて徒歩五分という立地にあったこともあって、「みんなの図書館」でありながらも、「私だけの図書館」という意識がいつも心のどこかにあったのだ。


読みたい本がその図書館になければ、近隣の図書館にから本を取り寄せてむさぼるように読んだ。いつも本を手配してくださる司書の方々には本当にお世話になったし、ほぼ家にいながらにして本が読めるという状況は私の読書体験を豊かなものにした。


図書館の館内はというと、世界幻想文学大系全巻がずらりと並んでいるなど、特に文芸書に力を入れていることが窺い知れて、そこも好きなポイントのひとつだった。


私は特に詩歌の棚を眺めるのが好きで、万葉集から近現代の詩歌までがずらりと並んでいるさまには心が満たされた。日夏耿之介高村光太郎もあの本棚があったから出会うことができた。中西進先生の『万葉の秀歌』を保存書庫から出してきてもらって借りた思い出は、未だに忘れられない。
インターネットで本を買えばすぐにでも手に入る本を、そうして回りくどいことをしながら読むということには、物語の外側にある物語を享受することが伴う。その日の図書館に流れている空気を今でも私はありありと思い出す。ちょっと日が傾いた館内のもの憂い空気を。


ああ、今でも私の心の中にはあの図書館が建っている。海外文学の棚を見るともなく見て歩いた時の静かな胸の高まりも、予約して取り寄せた古典全集のたぐいを片っ端からコピーして鞄に詰めこんだときの焦燥感も、ありありと思い出すことができる。


引っ越しが迫った日、私は図書館との別れを惜しむため、あえていつもとは違うルートを通って図書館へと向かった。高台にある道路から小さな階段を下りて図書館に向かうと、あたかもジブリ映画の耳をすませばに出てくる階段を下りているようで、それがたまらなく私の胸をときめかせるのだった。


図書館にたどり着いて、本を借りるでもなく館内をゆっくりと見て回った。いつもは足を運ばない自然科学系の棚や建築の棚に近づいてみると、こんな本があったのかという新たな発見もあり、私はこの図書館のことを半分も知らなかったのだという思いに駆られた。名残惜しさが私の心にこみ上げてくるとともに、この小さな図書館の魅力にあらためて触れた思いがした。

 

その図書館の開館カレンダーと貸出カードは未だに捨てずに大事に取ってある。今となっては私とあの場所をつなぐもの、私があの場所で過ごした日々を証すものはたったこの二つのアイテムだけなのだ。図書館で借りた本は一切手元に残らない。
その寂しさと、図書館という場所の潔さもまた、私にとっては焦がれてやまない魅力としていつまでも心に残り続けるのだ。