広寒宮

アマチュア作家・雨伽詩音の活動報告その他諸々

【読書感想】太宰治「駆け込み訴え」

太宰治「駆け込み訴え」

駈込み訴え

駈込み訴え

 

一体何のテレビ番組だったか、確かNHKの特集番組だったと思うが、朗読でこの小説の冒頭が語られていたのを鮮明に覚えている。

“申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。”

この勢い余った文章が叫ぶような朗読の声に乗せられて響いたとき、私は鳥肌が立った。以来、「駆け込み訴え」という小説の名は頭の片隅にあったのだけれど、今に至るまで読むことはなく、先日たまたま竹雀氏と飲んでいて太宰の名前が出て、急にこの小説を読みたいと思ったのだった。
太宰治の小説は高校生の頃に多少読んだきりで、ほとんど内容も覚えていないという有様だったし、心身の調子が安定しない大学生活を送ってきたこともあって、再読しようという気にはなれずにいた。未だに太宰治というと、少し身構えてしまうのだけれども、いざ読んでみると一気に引き込まれた。
なんと云っても文体の勢いが他に類を見ないほどで、こういう文章を真似して書こうとすると、私のような素人はまず間違いなく怪我をする。内心の叫びを非情なまでに冷徹な目で見つめたこの作品の文章は、真似しようと思ってそう簡単に真似できるものでもない。

 

この作品を読んでいて、最も印象に残ったのは次の台詞だった。

“おまえにも、お世話になるね。おまえの寂しさは、わかっている。けれども、そんなにいつも不機嫌な顔をしていては、いけない。寂しいときに、寂しそうな面容をするのは、それは偽善者のすることなのだ。寂しさを人にわかって貰おうとして、ことさらに顔色を変えて見せているだけなのだ。まことに神を信じているならば、おまえは、寂しい時でも素知らぬ振りをして顔を綺麗に洗い、頭に膏を塗り、微笑んでいなさるがよい。わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかって下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ”

 

このイエスの台詞は、おそらく太宰が自分自身へ向けたメッセージなのだろうと私は感じた。すなわちこの作品に描かれたユダとは太宰であり、

“おのれを高うする者は卑うせられ、おのれを卑うする者は高うせられると、あの人は約束なさったが、世の中、そんなに甘くいってたまるものか。あの人は嘘つきだ。言うこと言うこと、一から十まで出鱈目だ。私はてんで信じていない。けれども私は、あの人の美しさだけは信じている。あんなに美しい人はこの世に無い。私はあの人の美しさを、純粋に愛している。それだけだ”

 
という箇所は太宰自身の信仰への告白だと読み取った。
“おのれを高うする者は卑うせられ、おのれを卑うする者は高うせられる”という聖句は、傲慢と卑屈さを同時に抱え、その狭間で苦しんだ太宰にとって何よりも響く言葉だったのだろうと思う。だからこそ数ある新約聖書の言葉の中でこの箇所が抜き出されたのだ。

 

そしてユダの、云い換えれば太宰のこうしたメンタリティは、他に例を挙げるならばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に出てくるスメルジャコフを彷彿とさせる。
彼もまた卑屈さと傲慢さを兼ね備えた人物であり、カラマーゾフ家の家長・フョードルの従僕でもあって彼を殺害するに至る。
両者に相関関係があるかどうかは素人の私には分からないが、誰もがドストエフスキー作品を読んでいた時代にあって、太宰が『カラマーゾフの兄弟』を読んでいなかったということはないだろう。そしておそらく太宰が最も共感を覚えるキャラクターは、スメルジャコフではないかと私は思う。


それはともかく、この小説の最大の肝となっているのは、終盤のくだりだ。

“「私がいま、その人に一つまみのパンを与えます。その人は、ずいぶん不仕合わせな男なのです。ほんとうに、その人は、生まれて来なかったほうが、よかった」”

この台詞は太宰作品に通底するキーワードとなる言葉でもあり、それを他ならぬイエスが口にすることでユダは裏切りを決意するに至る。ここに太宰がこの小説を書く理由があったと私は思う。そしてこの裏切り以降の描写に太宰の作家としての真髄がある。


“おや、そのお金は? 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀。なる程、はははは。いや、お断り申します。殴られぬうちに、その金ひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ! いいえ、ごめんなさい、いただきましょう。そうだ、私は商人だったのだ。(…)いやしめられている金銭で、あの人に見事、復讐してやるのだ。これが私に、いちばんふさわしい復讐の手段だ。”


“私は、あの人を愛していない。はじめから、みじんも愛していなかった。はい、旦那さま。私は嘘ばかり申し上げました。私は、金が欲しさにあの人について歩いたのです。おお、それにちがい無い。あの人が、ちっとも私に儲けさせてくれないと今夜見極めがついたから、そこは商人、素速く寝返りを打ったのだ。金。世の中は金だけだ”


一見露悪的とも取れるのだが、小説の〆として成り立たせるためには、きちんとした計算と、ユダである自分自身を冷静に客観視する態度がなければこの描写は出てこない。感情に任せて書いているように見えても、そこには冷徹な観察眼が光っている。

最後になってようやくこの主人公がイスカリオテのユダであることが明かされるが、それは多少なりとも聖書の知識がある人であれば、冒頭数ページを読むと自ずと理解できるので、重要なのはこのオチではない。
この引用の箇所を文字通り解釈すれば、ユダが裏切りの対価を受け取り、己は商人であるという自覚を強く意識することで、金銭、ひいては自分自身を卑しんできたイエスへの憎悪が爆発した、とも読めるのだが、自らを金の亡者、つまり悪人だと思い込むことでしか、裏切りへの罪悪感を払拭できない、愚かで弱いひとりの男としてのユダの姿を克明に浮かび上がらせていると私は感じた。そしてその弱さそのものを太宰は描きたかったのだと。