広寒宮

アマチュア作家・雨伽詩音の活動報告その他諸々

言葉について

先日ヘミングウェイ読書会で、竹雀氏と常磐行人氏と同席したのだが、その際に英語の持つ多義性についての議論になった。

漢文に詳しい竹雀氏は同じグローバルな言語であっても、漢文というのはより厳密に語義を定義し、千年経っても揺らがないところがいいと話していた。しかし私は英語や漢語よりも日本語の曖昧さや言葉の響きに惹かれる。
日本語の美については谷崎潤一郎が『文章読本』の中で言葉を尽くして書いていて、私も非常に影響を受けたので、今更私が云うまでもない。

 

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

 

ただ、日本語の音の響き、これだけは確固とした持論がある。
小説や詩を書くとき、何よりも私が重視するのは音の響きで、たとえば衣なら「きぬ」と読ませたいし、魚なら「うお」と読んでほしい。しかし音に徹底的にこだわり、小説に総ルビを振った鏡花のように私は親切ではないから、そう読みたいと思う人に届けばいいと思っている。「ころも」や「さかな」と読んだところで問題はない。ただ「きぬ」「うお」と読んだ人にだけ自分の文章の魅力が感じられれば、それでいい。

 

そういう読者と著者の間にある暗号として、詩などはあえてルビを振らないこともあるが、さすがに小説を書く場合に初出のときには「きぬ」「うお」とルビを振る。しかしルビというのはいつしか忘れてしまうものでもあるから、はじめこそ「きぬ」「うお」と読んでいても、文章を読み進めるうちに「ころも」「さかな」と読む人もいるかもしれない。それは読者の自由に任せたいと思う。


自分のペンネームにしても「あめとぎしおん」と読むのか「あまとぎしおん」と読むのかは読み手にお任せしている。自分自身両方を渾然一体となって使うことも多い。どちらにせよ「雨伽詩音」という字面は変わらない。心地のいい音を選ぶなら「あまとぎしおん」なのだろうけども。


音の響きにこだわるのは、自分自身が聴覚過敏で耳障りな音を好まないというのが大きいのだろうと思う。私の書く多くの詩は語りの文体で綴られているし、『かもめソング』に寄稿した「翠の鳥」も自分の耳にとって心地よい言葉の配列にならって文章を書いた。常磐氏はそれを「ボイス」と評したが、私のボイスの根底にあるのはこの耳に心地よいか否かという言葉の取捨選択のあり方なのだろうと思う。


他の人の文章を赤入れするときにもその癖は反映されていて、谷崎潤一郎も『文章読本』の中で

文章を綴る場合に、まずその文句を実際に声に出して暗誦し、それがすらすらと云えるかどうかを試してみることが必要であります

と記している。他者の文章を読んでいて、音が滞るところや、無意識のうちに何度も同じ言葉が繰り返される箇所は適宜赤を入れている。語義にこだわるというよりは音にこだわる。そこには文学的な聴覚が勘となってはたらくのだろう。大前提として、もちろん語義に違和感を感じるところには赤を入れるが。

 

実際詩集『挽歌-elegy-』を作る上でも、幾度自分の書いた詩を朗読したか数えきれない。自分にとって至上の音楽を奏でるように言葉を綴るのは、私が文章を書く上でもっとも喜ばしいと感じる瞬間でもある。

star-bellflower.booth.pm


また手製本アンソロジー『べんぜんかん』に寄稿した「霊亀譚」を書いたとき、執筆陣のメンバーの方から「流麗な文体」と褒めていただいたが、私の目指すところはまさに谷崎の云う「流麗な調子」あるいは「源氏物語派の文章」であって、その文体を築き上げるがために小説を書いている節はある。

kakuyomu.jp


もっとも竹雀氏からは文体にこだわるべきではないという旨の指摘を受けたし、小説の核となるものは文体ではないのかもしれないが、私にとって文体とは磨き上げるべきものでもあり、また青天井を見上げるような心地をもたらすものでもある。磨いても磨いてもまだ足りないという飢餓感が私を創作へと駆り立てているのだ。
今後小説を書いていくにあたっても、まず文体を意識せざるを得ないのは変わらないだろうし、変えるつもりもない。