広寒宮

アマチュア作家・雨伽詩音の活動報告その他諸々

拙作「翠の鳥」にご感想をいただきました。

5/6文フリ東京にて頒布した合同誌『かもめソング』に寄稿した、拙作「翠の鳥」にご感想をいただきました。

以下引用です。

 

 

 

現代の夢幻譚〜王になれなかった王子の物語〜

 

「母さまはいずこにおいでなのでしょう。かの小さき一柱の神が渡った常世の国で、打ち寄せる波の音を聴いておられるのでしょうか。」
この印象的な書き出しから、物語は幕を開ける。それによって読者は、この作品世界と我々の日常とが不連続なものであることを直観させられ、幽玄な香りに満たされた異界へと足を踏み入れる。
もう一つこの冒頭には周到な仕掛けが施されている。作者が記紀文学に造詣がありそうだという漠然とした感触に過ぎない理解がここでは我々に残される。しかし、その理解が、やがて黄泉の国へと下りたイザナミよろしく、作品世界からもう帰ってこられないかもしれないという甘美な不安へと肥大化し、その「理解」という理性と「不安」という感性とが読みを駆動していき、結末では高らかに響きあう、その種子が撒かれているといえば言いすぎだろうか。

 

舞台は平安時代頃の貴族の家である。
複雑な生い立ちを持つ少年は、母を喪くし失意にある。彼にとって唯一の慰さめであったのは吹けば降雪をもたらすという雪笛。それは母の形見でもあった。
しかし、いま現在の主人公の保護者で、零落した貴人でもある叔母は、主人公に辛くあたり、果ては雪笛を取り上げ、自身の娘に与えてしまった。
ただ唯一、母と叔母の兄である伯父は、主人公にも、また生前の母にも深い慈しみを与えた数少ない理解者であるらしい。
そんな日々の中でなによりも主人公に暗い影を落としているのは、父親が誰だかわからないという恐怖であることも訥々と述べられていくことから、物語がいよいよ動き始める。

 

以上が作品の序にあたる部分である。
ここから実際に物語が動き始め、磨き上げられた水晶のような幻想や王朝絵巻のような華美が描かれていく。
そこで一貫しているのは、物語の筋という横糸と、それに見事なまでに調和した香り高い文体という縦糸である。それらの糸によって、一部の隙もなく、この物語は紡がれ、現代を範にとった作品ではとても用いることの叶わない大胆な比喩や言い回しがなんの違和感もなくぴたりとはまっている。


その高貴な文体が故に、主人公の感情の振れ幅も巧妙に、しかし大胆に織り込まれている。それが一番あらわれるのは、雪笛をせしめた姉上について恨み言を連ねていく箇所だ。
「(自分が笛を吹けば雪が降るが、姉の場合は)されどいくら吹けども雪は降らないご様子で」
「(孔雀に驚いた姉を指して)孔雀が孔雀に驚いたと、おもしろおかしく語りぐさになっていたようで。」
他の部分では、文末はしっかりと言い切っているのに対し、この箇所では「〜ようで」と曖昧に濁している。いたずら小僧が物陰に隠れながら、舌を出しているような、そんないじらしさがこの余白にはある。このような語尾は、普通の言語感覚だと少し際立ってしまいがちなのだが、それを他意なく読ませられる筆者の力量には舌を巻くばかりである。
他にも、
「私の胸のうちに姉上さまへの軽蔑の念がこみ上げてきたのは偽らざることでありました。
それはさておき(後略)」
ここでもひと息に自己の境遇をまくしたてはしたものの、ハッと我にかえり、途端に取り繕おうとする語り手の揺らぎが見事にあらわれている。

幻想文学としての内容は強いて言うべきではない。
しかし、この作品がいかに王朝物語として、体裁を整えているかという側面から聊か内容に
踏み込んでおきたい。

 

第一に、これが平安などの天皇制を踏まえた優れた王朝物語である点。
山口昌男天皇制の文化人類学』によれば、多くの神話、物語には以下のような二項対立がみられるという。(一部のみ記載)
王/王子
聖性/侵犯
主権/補佐
多くの物語では、「王子」的な存在は、「王」的な存在から迫害を加えられ、それに抗うという。多くの場合、王子は敗れ、それを主人公とした物語が編まれた。(哀悼の念もあったのだろう)
たとえば、『古事記』でのアマテラスとスサノオなどが恒例である。
狼藉を働いたスサノオは、王たるアマテラスから高天原を追い出されるなどの迫害を受ける。

 

加えて、上野千鶴子『神と日本人』では、天皇家内の近親婚の是が論じられている。一般的に同じ一族内での婚姻はタブーとされているのだが、天皇家の中では兄と妹での結婚がなされていた。それは、天皇・貴族・農民といった階級で考えたときに、女子は上の階級の男と結婚をするという原則があるのだが(貴族の女の多くが、皇族と結婚し、やがて外戚政治が形成されたことはよく知られたところである。)、天皇家という最上の階級に属する女はそれより上の男がないから階級内で婚姻をするのだという。(天皇より上、すなわち神と結婚するという意味から、斎宮がうまれたとも述べられている。)
つまり、近親婚というタブーを起こすことは特権的行為であり、『伊勢物語』の在原業平斎宮を密通するということは、単なる色好みという些事を超越して、ヒエラルキーへの挑戦というクーデタ的色彩をも帯びることになる。隼別と女鳥王の話は言うまでもない。

 

以上の二点から考えると、この物語にも、王たる伯父から遠ざけられる王子の物語、そして秩序への挑戦(近親相姦)が読み取れる。
例えば、冒頭で主人公が、かつての母との日々を回想する場面。
「物語の中で、あるときは母さまが雅やかな姫君となり、あるときは私が貴公子となりまして、あまりに幼くつたない恋物語に夢中にな」ると書かれている。
これは、母への恋慕であり、裏を返せばエディプスコンプレックスと呼ばれる父への挑戦である。しかし、主人公にとって父は不在である。だからこそ、この物語が大きく動くのは父という存在が大きな位置を締めるのだ。

 

第二に、この物語が王朝物語、民話としていかに体裁を整えているかという点。プロップ『民話の形態学』並びに折口信夫『国文学の発生』から。
これら二つの論文には多くの民話等に共通してみられる要素が羅列されている。
例えば、『民話の形態学』に書かれている諸要素と本作品とを対照させれば、
「家族のひとりが家を不在にする」→母の死
「主人公に対し禁止する」→主人公の軟禁
「敵は探りを入れる」→雪笛の発見
「主人公は魔法の手段を受ける」→雪笛
「主人公が探しているもののある場所に運ばれる」→主人公の移動
など。
『国文学の発生』では、「貴種流離譚」という日本文学に多くみられる要素に絞って論じられる。
例えば、「日本文学の主人公は弱く、成長が少ない」
「主人公が性的な侵犯を犯したことによって、追放される」
これらはまさに本作にもみられるということはおおむね賛同いただけることと思う。(性的な侵犯を直接起こしたのは主人公自身ではなく、彼の親だが、その罪を彼が引き継いでいるとすれば説明がつく。)

 

以上のような、民話、古典にみられると指摘される要素をしっかりと踏まえた点から、本作がいかに「民話」レベルを踏まえた現代作品であるかが分かる。だからこそ、読者は安心して作品世界に身を委ねられるのだ。

以上を踏まえて、末筆ながら管見を申し添えることをご寛恕願えるなら、本作品は『古事記』、『源氏物語』以来の、「王になれなかった王子」の物語といえよう。
そして、『源氏物語』では、最後に多くの庭園と女性を擁する事実上の帝王となったように、本作でも、最後には庭と鳥を手に入れる。そこに幻想的な要素を織り込んだこととみずみずしい雅文で描いたこととが作者の稀有な能力である。

 

惜しむらくは、会話文をより一層世界観へ親和させられたらと願うばかりだが、地の文体は徹底的に洗練されており、完成度は極めて高い。
その編み込まれた文体に反して、クライマックスは息をもつかせぬ躍動感を伴い、ぐいぐいと読ませる。
細かい小道具や言葉の端々に至るまで、名うての造園業のように手が行き届いており、この世界への思慕は深まるばかりだ。
加えて、これだけ作り込まれた世界観ながら、徹底的に削ぎ落としされた大胆さにも敬意を表したい。(私のような貧乏性なら、これだけ優れた世界を構築したら、もっと書き込みたくなるだろう)

この作品を読んで、折口信夫死者の書』を思い返した。
松岡正剛が『死者の書』を評した賛嘆を結びと変えさせて、拙文を閉じたい。

「珠玉の一冊であるというには、この作品がひたすら凝縮されたものだということがなければならない。長大なものではなく、織りこまれた一片の布切れのようでありながら、そこからは尽きぬ物語の真髄が山水絵巻のごとくにいくらも流出してくるということである。」
松岡正剛の千夜千冊 折口信夫死者の書』」(https://1000ya.isis.ne.jp/0143.html