広寒宮

アマチュア作家・雨伽詩音の活動報告その他諸々

出典という宇宙

出典厨というといかにも聞こえは悪いが、私は出典厨な人間だ。学生時代、恩師に注釈がきちんとしていない本は読むなと教え諭されてからは、学術書を手に取るときにはまず注釈をチェックすることにしている。


また本文中に出てきた漢籍や日本の古典などの引用は、できるだけ原典に当たるべく、図書館で古典文学全集を開くようにしている。物覚えは著しく悪い人間だけども、そうして地道な作業を繰り返しているうちに、記紀神話の神代の部分を覚えたり、古典の書名を覚えたりして、それが勉強するということの原点になっていると感じる。
一般書を読んでいても、気になったものはできるだけ原典に当たる。たとえば白洲正子の『古典の細道』などは謡曲集の蝉丸に当たった。

古典の細道 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

古典の細道 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 
謡曲百番 (新日本古典文学大系 57)

謡曲百番 (新日本古典文学大系 57)

 

 

こうした出典厨の姿勢が高じて漢詩を読むときにも必ず注釈を読む。漢詩は引用の宝庫だ。そもそも古典籍の引用なくして漢詩は成り立たないと云っていい。たとえば唐詩選に収められている盧昭鄰の『長安古意』では、

借問吹簫向紫煙 借問す 簫(しょう)を吹いて紫煙に向うは
曾経学舞度芳年 曽(かつ)て舞を学んで芳年を度(わた)れり
得成比目何辞死 比目を成すを得ずば何ぞ死を辞せん
願作鴛鴦不羨仙 願わくば鴛鴦(えんおう)と作(な)りて仙を羨まじ

とある。

この句には「列仙伝」にみえる弄玉(ろうぎょく)の故事をふまえている。むかし秦の穆(ぼく)王に弄玉とよばれる娘があった。簫の上手な簫史(しょうし)にほれこんだので、父の穆王はこれに娘を嫁がせた。簫史は妻に簫を教え、鳳鳴の曲を演奏させたところ、鳳凰が舞いおりるほどになった。穆王はために鳳台を作って二人を住まわせたが、数年間そこからおりて来なかった夫妻は、ついに鳳凰に随って、仙界へ昇天して去ったという。――高木正一唐詩選上 新訂中国古典選14』、朝日新聞社、1965、p39。

 と解説にはある。

 

この故事はたびたび漢詩に引用されているようで、他にもいくつかこの故事に基づく漢詩に行き当たった。そのたびに「ああ、あの故事から来ているのか」と知識が補強されていくのは楽しい。
漢詩を読む喜びは注釈をたどる喜びでもあるのだと感じずにはいられない。
その出典厨の私が愛好する本が、同じく唐代に記された小説『遊仙窟』で、岩波文庫版のものだと本文よりも注釈と影印本の分量の方が厚いというなんとも出典厨には嬉しい仕様になっている。

遊仙窟 (岩波文庫)

遊仙窟 (岩波文庫)

 

余以小娯聲色早慕佳期歴訪風流遍遊天下 弾鶴于蜀郡飽見文君吹鳳管秦楼熟看弄玉


わたしは年少のときから歌や女に心を惹かれ、美女との逢瀬にあこがれて、歓楽の場所をつぎつぎに訪ねて天下を遍歴しました。蜀郡では、「別鶴操(べつかくそう)」を琴(きん)で弾いて、文君(ぶんくん)のもとに通いつめ、秦楼で鳳管を吹いて弄玉の顔もあきるほどながめました。
――張文成作・今村与志訳『遊仙窟』岩波文庫、1990年、15p。

 

云わずもがな、この箇所も弄玉の故事を踏まえて書かれている。ちなみに文君とは卓文君と司馬相如の逸話になぞらえたものだろう。こちらも漢詩ではポピュラーに引用される故事だ。
私のような漢詩を専門に学んだことのない人間であっても、ひとたび出典の世界に魅了されると、漢詩がぐんと面白くなる。
他にも六朝詩でいうと曹植の詩などは『遊仙窟』はもちろん、唐詩にもたびたび引用されているし、ひとたび漢詩をひもとけば、その世界は点と点とをつなげて線になっていくように結びつけられ、広がってゆく。ここに知の醍醐味がある。

出典を探っていくことで知識は二倍にも三倍にも広がってゆく。その面白さをぜひ多くの人に知っていただきたい。

【お題参加】六朝詩からの卒業

今週のお題「卒業」

 

最近、『唐詩選』を読んでいる。

f:id:evie-11:20190329105947j:image

 

 

読もうと思ったきっかけは、漢籍に詳しい恋人が唐詩選を勧めてくれたからなのだが、それまでは玉台新詠や文選が好きだった私にとっては、六朝詩こそが自分の好みに合う漢詩であり、唐詩にはあまり興味がなかった。

f:id:evie-11:20190329121404j:image

 以前、彼に勧められて『李白詩選』を読んだときには、李白の五言絶句に魅了されたものだが、この一冊を読んでからはすっかり唐詩から遠ざかってしまっていた。

李白詩選 (岩波文庫)

李白詩選 (岩波文庫)

 

 華美な語彙を好む身としてみれば、貴族文化が花開いた六朝詩のロマンティシズムにはえも云われぬ魅力を感じていたし、それに比べて唐詩はいささか質実剛健なイメージがあって、味わい深さで云えば勝るけども、その味わいも枯淡として玄人好みに思えたのだ。

私には唐詩の良さはわからないとはなから決めつけていた。

しかしひとたび唐詩選を紐解いてみると、劉庭芝(りゅうていし)の「公子行」に夢中になった。

有名な一節を引いておくと、

古人無復洛城東 古人復た洛城の東に無く

今人還対落花風 今人還(ま)た対す 落花の風

年年歳歳花相似 年年歳歳花相(あい)似(に)たり

歳歳年年人不同 歳歳年年人同じからず

寄言全盛紅顔子 言に寄す 全盛の紅顔の子

応憐半死白頭翁  応(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁(はくとうおう)

 

――劉庭芝「公子行」

 

年年歳歳花相似 年年歳歳花相似たり

歳歳年年人不同 歳歳年年人同じからず

という対句を巡っては、以下の解説が付されている。

年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず」という対句がうかんできた。これまた不吉な予感がしたけれども、捨て去るにしのびず、「死生は天命というから、この詩句と何の関係があろう」といって、両方とも詩中にとり入れることに決心した。ところが、以後一年たたずして彼は、悪人のために殺されてしまったという。一節には、彼を殺したのは舅にあたる宋之問だとも言われる。作者がこの詩を発表しないうちに舅の宋之問に見せたところ、之問は、「年年歳歳」の二句をみて大へん気に入り、「是非ともこの句をわしにゆずってくれないか」といいだした。舅の申し出だから、むげにことわるわけにもいかず、これを承諾したが、考えてみると、やはり惜しい。あれこれと思案したあげく、一たん承諾しておきながらこれを拒絶し、後に自作として発表してしまった。二重に面目をつぶされた宋之問は逆上のあまり、ひそかに奴僕に命じて作者を土嚢で圧殺させたという。真偽のほどはうたがわしいが、かかるエピソードを生むほどに、この二句は有名であり、一篇中の名句として古来人口に膾炙している。

 

――高木正一唐詩選 上』新訂 中国古典選14、朝日新聞社、1965年、137 頁。

漢詩を読むのもさることながら、こうして解説を読んで語彙の出典を知ったり、 作者にまつわるエピソードを知ることができるのも大変楽しい。

彼にこの対句を見せたところ、「ああこの詩か」と云っていたので、漢文愛好者の間では本当に有名な対句なのだろう。

それから、かもめメンバーの竹雀氏が敬服する陳子昂の詩に私も惹かれたので載せておく。

晩次楽郷県 晩に楽郷県に次(やど)る

故郷杳無際 故郷杳として際(はて)無し

日暮且孤征 日暮 且(しば)らく孤征す

川原迷旧国 川原(せんげん)旧国に迷い

道路入辺城 道路辺城に入る

野戌荒煙断 野戌(やじゅ)荒煙に断え

深山古木平 深山 古木平らかなり

如何此時恨 如何ぞ 此の時の恨み

嗷嗷夜猿鳴 嗷嗷(きょうきょう)として夜猿(やえん)鳴く

 ここに至るまで読んできた宮廷詩人による応制詩(皇帝の詔勅を受けて作った詩)とは打って変わって無骨で無駄のない詩風だが、その情趣はいっそう深く感じられる。

他にも諸葛孔明など、歴史上の故事を織り込んだ詩も唐詩選には収められており、あたかも彼が一歴史家であったような風格すら感じられる。

現に解説によれば、

陳子昂の詩は、古体と近体とを問わず、共通して流れるものは、古風の力強い男性的な感情であり、それががっしりした骨組みをもって歌われるとともに、経史の学を学んだ人のみがもちうる思想をその内容とすることなどによって、南朝の詩や、当時における宮廷詩人たちのそれとはちがった特色を発揮し、やがては盛唐の李白によって継承され、完成される古風の道をきりひらいている。―― ――高木正一唐詩選 上』新訂 中国古典選14、朝日新聞社、1965年、260頁

 とある。

以前の私であれば、この良さはあまりわからなかったと思うのだけれども、唐詩選を頭から読んでいると、その斬新さと味わい深さは際立って感じられるのだ。

ちなみに竹雀氏は以前エッセイに陳子昂の詩を引いていたので、併せて紹介しておく。

 

まとめてみると、これまで六朝詩にこだわっていた自分にとって、唐詩選との出会いは衝撃的なものであった。より多くのバリエーションを持った詩の数々が収められたこの本を通じて、私は漢詩の奥行きを感じることができたし、まだまだ漢詩について学びたいという意欲も高まった。

f:id:evie-11:20190329130844j:image

 

そこで図書館で漢詩の本を二冊借りてきた。

魯迅『物語・唐の反骨三詩人』と、岩波文庫版文選にも関わっておられる川合康三氏の『生と死のことば 中国の名言を読む』という本だ。 

物語・唐の反骨三詩人 (集英社新書)

物語・唐の反骨三詩人 (集英社新書)

 

『物語・唐の反骨三詩人』には先に挙げた陳子昂の他に、孟浩然と李白について書かれていて、今から読むのが楽しみだ。『生と死のことば』には漢詩だと白居易陶淵明などの言葉が収められているらしい。

こうして新たなスタートを切った気分で、これからも漢詩とは永く付き合って行きたい。彼からたくさんのことを学びつつ、私も成長していきたい。

 

追記メモ

年年歳歳花相似 年年歳歳花相似たり

歳歳年年人不同 歳歳年年人同じからず

については、川合康三『生と死のことば――中国の名言を読む』にも引用されている。

【お題参加】最近知った言葉

お題「最近知った言葉」

観楓(かんぷう)という言葉がある。紅葉狩りを指す言葉で、花見を指す観桜(かんおう)に対して観楓(かんぷう)と云うらしい。

この言葉を知ったのは三島由紀夫の小説『仮面の告白』だったと記憶しているが、もしかしたら『春の雪』だったかもしれない。

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 
豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

 

 いずれにせよ雅な言葉だなと感じる。

言葉を覚えると使ってみたくなるというのが人のサガというもので、先月私も「狂愛の戯れ」という詩に「観桜観楓」という言葉を使ってみた。

http://star-bellflower06.tumblr.com/post/182914909432/狂愛の戯れ

star-bellflower06.tumblr.com

 

 谷崎潤一郎は『文章読本』の中で和語の美しさを強調しているけども、漢語も充分美しい。 

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

 要は使い方次第というところなのだろう。

谷崎が記しているように、

漢字と云う重宝な文字のあることが、却って禍している

 こともある。 

谷崎は二字熟語などからなる新語を批判していて、私も二字熟語を用いすぎた文章はあまり好ましく思わないのだけれど、観桜観楓の言葉の美しさは、それが対称であること、また季節感を醸し出していること、花見と紅葉狩りという和風の文化に中国風のニュアンスを添えることの美しさにある。

おそらく観桜も観楓も、ちょっと古風で改まった場所で用いられる語なのだろうということも格調高さが感じられてなお良い。

 

それにしても、ひとつの言葉をとってみてもこれだけ語ることが多いというのは面白い。

また何かの折に気に入った言葉を見つけたらこちらでも紹介したいと思う。

本を読めないとき

読書が趣味の柱である自分にとって、精神的に本が読めない時間というのは苦痛を感じずにはいられない。読もうと思っても目が滑ったり、そもそも本を手に取る気になれないということも多々ある。
そんな状態で無理に本を読もうと思っても致し方ない。そういう時は潔くあきらめて本を読まないか、読んだとしても生活の本や自己啓発本、新書など、軽めの本にとどめるようにしている。


そんなときに心強い味方になってくれるのが図書館だ。
気軽に読める本をあまり家に置かないタイプの人間にとっては、図書館に置いてある新書や一般向けに書かれた仏教の本などが揃っているのはありがたい。それも返してしまえば家に置かずに済むし、どうしても手元に置きたい本だけを選んで書店で買えるというのもいい。
気に入らなければ途中で読むのをやめてもいいというのも図書館で本を借りるメリットのひとつだ。心置きなく失敗ができるというのは、メンタルが参っている状態のときはさながらセーフティーネットのように安心感を覚える。
そもそも図書館という空間自体ひとつのアジールセーフティーネットであると思えば、私はそのセーフティーネットに生かされてきたと云っても過言ではない。
もっとも今の状況を打開したいとは思う。もっとハードな文芸書をたくさん読みたいし、読書は小説を書く上での筋トレでもあるので、筋力が鈍らないようにしなくてはとも思う。


それでも今の状況を許容しなければどうにもならない時もある。焦って足掻いてもどうしようもない時もある。読書というのは基本的に長期戦だ。一日読めばそれきりで終わりというものではなく、読書意欲にもどうしてもムラが出てくる。
それをノルマを課して乗り切るストイックなタイプならいいのだろうが、私はどうにもそういうタイプではなさそうだ。どうしても読む日があったり、読まない日があったりを繰り返してしまう。

 

そういう時にも図書館は威力を発揮してくれる。
図書館から本を借りれば返却日が設けられている以上は否が応でも読まざるを得ない。それが軽めの本であれば一日で借りてきた本の大半を読んでしまうこともあるし、そうでない本も無理のないペースで借りているので、読み終えられないということはあまりない。
多少読書意欲が湧かなくても、図書館の本だと自然と手が伸びるから不思議だ。こうしてみると、私の読書生活には図書館が不可欠なのだなということをあらためて感じる。


今図書館から借りている本は、NHKの「趣味どきっ! 幸せになる暮らしの道具の使い方」で紹介されていた甲斐みのりさんの本だ。

幸せになる 暮らしの道具の使い方。 (趣味どきっ!)

幸せになる 暮らしの道具の使い方。 (趣味どきっ!)

  • 作者: こぐれひでこ,相場正一郎,野村友里,山本浩未,甲斐みのり,引田ターセン&かおり夫妻
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2018/11/26
  • メディア: ムック
  • この商品を含むブログを見る
 


奇しくも先日借りた東郷青児の本にも彼女のエッセイが載っていて、不思議な縁を感じたのだが、乙女のロマンティシズムを感じる文章を読み、ノスタルジックな写真の数々を見ていると病みつかれた心が癒されていくようで、これも「今まさに出会うべくして出会った」本なのだなと思う。

東郷青児 (らんぷの本) (らんぷの本)

東郷青児 (らんぷの本) (らんぷの本)

 
つまさきだちの日々 (幻冬舎文庫)

つまさきだちの日々 (幻冬舎文庫)

 

私自身はそこまで懐古趣味はないし、下町にも純喫茶にもさほど惹かれるタイプではないのだけれども、彼女の「好き」という気持ちを濃縮した本たちは、それ自体がひとつの宝物のようで、今の私にはきらきらと輝いて見える。
自分の「好き」という気持ちにこんなにも素直になれたら、きっと世界はもっと美しく見えるのだろうなとも思った。私は自分の「好き」という気持ちを作品に落とし込むことで、自分の心の支えにしているところがあるけども、彼女はこの世界に「好き」なものを見出して、自分の「好き」なものがあふれているこの東京という街を心から愛している。
そういう彼女の姿は立派だなと思わずにはいられないし、心からなぐさめられているような気持ちになった。
これも図書館での出会いがなければ彼女の本に実際に触れてみようとは思わなかっただろう。あらためて図書館という場所に感謝したい。

図書館の愉しみ

f:id:evie-11:20190224201210j:image
f:id:evie-11:20190224201218j:image
f:id:evie-11:20190224201214j:image

図書館には季節ごとに特集展示というものがある。司書の友人によれば、このような展示の支度も大変だそうなのだが、私が通っている最寄りの図書館では今「和を楽しむ」という企画の展示をしている。

手持ちの読みさしの本があって、特に借りたい本がないときなどにこのコーナーを覗くと、なにかと掘り出し物が多い。

こういう本がこの図書館にあったのかという発見とともに、これまでぼんやりと興味のあった本を間近にする喜びもひとしおだ。

借りたのは『日本美術読みとき事典』『絵師別 江戸絵画入門』『ニッポンの星、月、夜の絶景』の三冊。

 

日本美術読みとき事典 (目の眼ハンドブック)

日本美術読みとき事典 (目の眼ハンドブック)

 
絵師別 江戸絵画入門

絵師別 江戸絵画入門

 
ニッポンの星、月、夜の絶景

ニッポンの星、月、夜の絶景

 

 

 前者二冊はちょうど澤田瞳子の『若冲』を読んでいたのがきっかけで手に取ったのだが、特に『日本美術読みとき事典』は得るものが多かった。

f:id:evie-11:20190224201921j:image

特に惹かれたのはやはり山水画のくだりで、名称の羅列に終始する傾向はややあったものの、久しぶりに勉強する楽しみを味わえた一冊で、収穫の多い読書体験を得ることができた。

 

『ニッポンの星、月、夜の絶景』は体調を崩して癒しを求めて借りた一冊で、特に桂浜の情景に涙がこぼれそうになった。谷崎の「母を恋うる記」を彷彿とさせたのだ。

写真集は普段自分で買うことはないけれど、探してみると図書館にはさまざまな写真集が揃っているようだ。

読書に疲れた合間にでも少しずつ借りていきたい。

ちなみに同じ写真に写っている本はリサイクル本として自由に持ち帰れるとのことだったのでお迎えすることにした。 

節分 (仏教行事歳時記)

節分 (仏教行事歳時記)

 

仏教に関心がある身としては、いずれはシリーズを揃えたいところだ。

【エッセイ】手紙魔活動

手紙を頻繁に出すようになったのは、学生時代の頃からだったが、宛先は年々変わってきているとはいえ、手紙を書く習慣は未だに続いている。

元来寂しがり屋ということもあり、またアナログ人間ということもあって、手紙というメディアが私にはしっくりくるのだ。

季節ごとに切手を変えたり、便箋を選んだりするのも楽しいし、はがきは四季ごとに取り揃えてある。

引っ越してからはめぼしい文具屋さんが近所になくなってしまったので、都心に出るたびに紙モノをお迎えしている。

f:id:evie-11:20190215110744j:image
f:id:evie-11:20190215110739j:image

年中手紙を書く人間なので、季節を問わず使えるレターセットというのも大切なアイテムだ。

最近は封筒にシールを貼る楽しみや、美術展のポストカードを送る面白さも覚えて、ますます手紙を出すのが楽しくなった。

f:id:evie-11:20190215111117j:image
f:id:evie-11:20190215111121j:image
f:id:evie-11:20190215111128j:image

f:id:evie-11:20190224204316j:image

この人はこういう絵画が好きそうだなと思う相手に合わせてポストカードを選ぶのは、贈りものを送るようでわくわくする。

もともと人にものを贈るのが好きなたちなのだが、品物を贈るのは相手にも気を遣わせてしまうから、その点手紙は気兼ねなく送れるところがいい。

内容は様々だが、ちょっとしたお礼や、季節の挨拶、友人に本をあげたり貸したりするときに一筆添えたりと、口下手な私が手紙を通じて気持ちを伝えやすくなるのは本当にありがたい。

愛想のない私のせめてもの愛嬌として手紙というツールがあると感じる。

普段はチラシやDMばかりの郵便受けにかわいらしい封筒の手紙が入っていると、やはりうれしいものだ。

そういう何気ないしあわせを贈る気持ちで今日も筆をとる。

再読するということ

本を再読するのが好きだ。気に入った本は一年のうちに何度も何度も再読して、文章が体に染みつくまで読む。

 

鏡花や谷崎などはその筆頭で、鏡花に関しては忌日には毎年絶筆の『縷紅新草』を読んでいるし、「夜叉ヶ池」「眉かくしの霊」なども何度となく読んでいる。

縷紅新草

縷紅新草

 
夜叉ヶ池

夜叉ヶ池

 
眉かくしの霊

眉かくしの霊

 

これらの物語は、いずれも虐げられたヒロインが死後、妖怪となり、幽霊となって美へと昇華されるという筋立てになっているのだが、幼少期から不遇の時代を過ごしてきた私にとってはそれが一種の救済の物語となって目の前に表れるのだ。

鏡花の託した祈りが時代を超えて私の胸に幾度となく響きわたるのを聞くのは、心が洗われる心地がする。

 

 

谷崎は「蘆刈」を繰り返し読んでいる。昨年の秋には久しぶりに『春琴抄』を読み返した。

蘆刈

蘆刈

 

 

春琴抄 (新潮文庫)

春琴抄 (新潮文庫)

 

 すると、これまで見えてこなかった文豪たちの嗜好やこだわり、理想とする美が見えてくる。

蘆刈」では児戯に等しかった支配-非支配の関係が、『春琴抄』では明確に描かれる。どうにもその激しさが私は不得手で、春琴という驕慢なキャラクターが好きになれずにいたのだけれど、そこにはお遊さまのような墨をぼかしたような幽玄の美はなく、確固たる支配者としての盲目の美女が鎮座している。

彼女を崇め奉る佐助の心は私にはまったくわからない。ただ盲人同士の愛というものがこの上もなくエロティックで、それはまさに軟体動物同士が交わるような愛なのだろうと思うとぞくりとする。

春琴抄は春琴の目線で読めばそこそこ楽しめはするのだが、やはり苦労というものを露程にも知らず、世間から隔絶されたところで永遠の美を慈しむ「蘆刈」のお遊さまの方が私は好きだ。

 

最近の作家だと皆川博子をよく再読する。『蝶』は三度ほど読んだし、『花闇』は二度読んだ。『妖恋』も二度ほど。

蝶 (文春文庫)

蝶 (文春文庫)

 

特に『蝶』の「遺し文」が私は特に好きで、皆川博子の描く狂女は妖艶で好ましいのだけれども、再読するたびに彼女の妖しさ・悲しさがいっそう引き立つさまは、何ものにも代え難い喜びをもたらしてくれる。

花闇 (河出文庫)

花闇 (河出文庫)

 

花闇はなんと云っても頽れてゆく澤村田之助の姿がいい。爛熟した花のような姿に魅せられる。年初は日本の伝統芸能に触れることにしているので、昨年のはじめに再読したのだが、未だにあの耽美にして壮絶な澤村田之助の生き様は忘れがたい。歴史小説を書くということは一筋縄ではいかないが、それだけに皆川博子澤村田之助への愛を感じだ一冊だった。

妖恋 PHP文芸文庫

妖恋 PHP文芸文庫

 

『妖恋』については昨年の一月に読んだきりなので読書メーターから感想を転載する。

改めて読んでみると、「螢沢」「妖恋」には、おばけずきで妖女を慕う、泉鏡花の影響が色濃く出ていると感じた。前回読んだ時には「十六夜鏡」に魅せられたけども、今回推したいのは「螢沢」。姉様がお優しくも妖しくて美しい。「濡れ千鳥」は同じ変化朝顔をモチーフとした『みだれ英泉』を読んだばかりだったので、この花に魅了された皆川博子の心の琴線に触れた気がしてうれしくなった。

そう男女のあわいにある美少女の物語『十六夜鏡』も 私の心を強く惹きつけた。

またぜひ再読したい一冊だ。

こうして自分が好ましいと思う物語を何度も味わう幸福は格別なものがある。

 

それと同時に文体を学ぶという意味でも再読は大いに寄与してくれる。

私が今の文体にたどり着いたのも鏡花や谷崎を何度も再読したからだし、ますます磨いていきたいと思っている。

繰り返し同じ本を読むことで、細部まで己の血肉に染みこませることができると私は信じている。

 

再読するにあたって、なにも必ず手元になければならないという法はない。

皆川博子の『蝶』も『妖恋』も図書館で借りたものだし、いずれご縁があれば自宅の本棚に収まるだろう、ぐらいの心づもりでいる。

 

物語を何度でも思い出すために再読する喜びは、ひょっとしたら新たな物語と出会う喜びよりも、私にとっては大きいのかもしれない。