広寒宮

アマチュア作家・雨伽詩音の活動報告その他諸々

【活動報告】月下秋愁

おかげさまで近ごろはTwitterでご感想をいただいたり、個人サイト紫水宮でリアクションをいただくことが増えて、本当にありがたいかぎりです。
この場を借りて御礼申し上げます。今後ともよろしくお願いいたします。
9月~10月初旬にかけて書いたものを以下にまとめてみました。

 

■俳句
月下秋愁
月をテーマに俳句を詠みました。月というモチーフへのあこがれは、私が全体の作品のテーマとして掲げている、雪月花の中でもひときわ強いのですが、公開したのが9月ということもあって、今ここでこの題で詠まねばなんとするという気持ちで詠みました。

http://star-bellflower06.tumblr.com/post/178075787082/月下秋愁

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暗黒神話
神道と仏教をテーマに詠みました。記紀神話ツクヨミの解釈には個人的に釈然としないものを感じていたのですが、今年の中秋の名月を見上げていたときに、「ああこれならたしかにツクヨミウケモチを殺すわ」と腑に落ちたのがきっかけでした。いったい何を云っているのやら……。
全体的なイメージとしては中上健次の『千年の愉楽』のような、聖なるものでありながら修羅のようでもある、煮えたぎる情念の世界を俳句に託しました。

http://star-bellflower06.tumblr.com/post/178440998797/暗黒神話

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■詩
小夜遊戯
帰省先の長崎で書いた詩の一作目。花あやめという言葉は萩原朔太郎の詩からお借りし、全体的な雰囲気は行きの飛行機で読んでいた森茉莉へのオマージュです。西洋風の耽美な詩はこれからももうちょっとバリエーションを増やしていきたいところです。

http://star-bellflower06.tumblr.com/post/178600488652/小夜遊戯

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最後の手紙
長崎から東京の友人に宛て書いた手紙が思うように書けず、詩に託したのがこの一作。丸山遊女の派手好みな袖、というのはいわゆる「長崎衣装」のことなんですが、固有名詞だと伝わりづらいのでこういう形容になりました。

http://star-bellflower06.tumblr.com/post/178666874167/最後の手紙

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宿借記
こちらも長崎で書いた一作。谷崎潤一郎「秘密」にインスパイアされた作品で、僧坊を間借りしている旅人の目線で書いた一作なのでこのようなタイトルになりました。行きの飛行機でエロスとアガペーについてぐるぐる考えていたのが如実に出ている気がします。竹雀氏から「美僧がまたひどい目に遭っている」と評されましたが、美僧はついいじめたくなりますね。

http://kamomesong.tumblr.com/post/178785523578/宿借記

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たましいのふるさと
故郷に帰って書いた詩。生まれは市街地の方なのですが、祖母の家に預けられて田園風景が広がる田舎で育ちました。
数年ぶりに帰った故郷では猪よけの柵が里全体にわたって張り巡らされ、かつては花やお神酒が供えられていた祠や水神・土神の碑も、草木に埋もれてしまっていました。その光景を詩に仕立てました。次回作はまた違った切り口と語りで故郷について詩を発表する予定です。

 

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■エッセイ
白洲正子とわたし
高校時代を経て大学時代に再会した白洲正子との思い出をエッセイに綴りました。このような出会い方をした文筆家は後にも先にも彼女だけだと思います。奇遇といいますか、奇縁といいますか……。白洲正子ファンの方はもちろん、そうでない方もぜひご覧ください。

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【活動報告】詩と掌編、俳句

ずいぶんと間が空いてしまったので、その間に書いたものがけっこう溜まってしまいました。やや駆け足になりますが、手短に紹介させていただきます。

 

■夏企画
夢花火

夏企画

平成最後の夏というテーマで「夢花火」という詩を寄稿させていただきました。サイトのレイアウトがとにかくおしゃれで、アオリ文までつけていただけたのが本当にうれしかったです。ぜひサイトの方でご確認ください。

 

ありがたいことに感想をいただいております。

言葉の響きにこだわって書いた作品なので褒めていただけてたいへんうれしいです‥‥!

 

 

 

■パセリ流星群
7月に書いた補陀落渡り」はこちらのTwitterモーメントにまとめていただいています。文庫本のような感覚で読めるので是非ご覧ください。

twitter.com

ご感想もいただいております。 

 

 

■紫水宮

秋宵抄

http://star-bellflower06.tumblr.com/post/177796685747/秋宵抄

star-bellflower06.tumblr.com秋をテーマに、体調を崩した時恒例の俳句を詠みました。同じモチーフを多用しがちなので、もう少し引き出しを増やしたいところですね。

 

 

■かもめソング
人体標本

http://kamomesong.tumblr.com/post/177617714870/人体標本

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紫水宮に載せた「あなたへ」「夢花火」はわりとピュアなイメージが続いていたので、反動が出てSっ気のあるものを書きたくなってしまいました。書いている最中はあまり意識していなかったのですが、学生時代に読んで衝撃を受けた『家畜人ヤプー』の影響を未だに引きずっているようです。耽美×SFの組み合わせはなかなか面白かったので、もう少し色々書いてみたくなりました。ちなみにこの作品のロケ地は某動物園の昆虫館にある昆虫標本の部屋なのでした。

 

Twitterでもいつもより反響をいただけて、たいへんうれしかったです。

 

この作品を書いている間、ずっとAural Vampireを聴いていて、久しぶりに書いていて楽しいと感じた詩になりました。ぜひこちらを聴きながらご覧下さい。


Aural Vampire - Cannibal Coast With Lyrics



【読書感想】太宰治「駆け込み訴え」

太宰治「駆け込み訴え」

駈込み訴え

駈込み訴え

 

一体何のテレビ番組だったか、確かNHKの特集番組だったと思うが、朗読でこの小説の冒頭が語られていたのを鮮明に覚えている。

“申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。”

この勢い余った文章が叫ぶような朗読の声に乗せられて響いたとき、私は鳥肌が立った。以来、「駆け込み訴え」という小説の名は頭の片隅にあったのだけれど、今に至るまで読むことはなく、先日たまたま竹雀氏と飲んでいて太宰の名前が出て、急にこの小説を読みたいと思ったのだった。
太宰治の小説は高校生の頃に多少読んだきりで、ほとんど内容も覚えていないという有様だったし、心身の調子が安定しない大学生活を送ってきたこともあって、再読しようという気にはなれずにいた。未だに太宰治というと、少し身構えてしまうのだけれども、いざ読んでみると一気に引き込まれた。
なんと云っても文体の勢いが他に類を見ないほどで、こういう文章を真似して書こうとすると、私のような素人はまず間違いなく怪我をする。内心の叫びを非情なまでに冷徹な目で見つめたこの作品の文章は、真似しようと思ってそう簡単に真似できるものでもない。

 

この作品を読んでいて、最も印象に残ったのは次の台詞だった。

“おまえにも、お世話になるね。おまえの寂しさは、わかっている。けれども、そんなにいつも不機嫌な顔をしていては、いけない。寂しいときに、寂しそうな面容をするのは、それは偽善者のすることなのだ。寂しさを人にわかって貰おうとして、ことさらに顔色を変えて見せているだけなのだ。まことに神を信じているならば、おまえは、寂しい時でも素知らぬ振りをして顔を綺麗に洗い、頭に膏を塗り、微笑んでいなさるがよい。わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかって下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ”

 

このイエスの台詞は、おそらく太宰が自分自身へ向けたメッセージなのだろうと私は感じた。すなわちこの作品に描かれたユダとは太宰であり、

“おのれを高うする者は卑うせられ、おのれを卑うする者は高うせられると、あの人は約束なさったが、世の中、そんなに甘くいってたまるものか。あの人は嘘つきだ。言うこと言うこと、一から十まで出鱈目だ。私はてんで信じていない。けれども私は、あの人の美しさだけは信じている。あんなに美しい人はこの世に無い。私はあの人の美しさを、純粋に愛している。それだけだ”

 
という箇所は太宰自身の信仰への告白だと読み取った。
“おのれを高うする者は卑うせられ、おのれを卑うする者は高うせられる”という聖句は、傲慢と卑屈さを同時に抱え、その狭間で苦しんだ太宰にとって何よりも響く言葉だったのだろうと思う。だからこそ数ある新約聖書の言葉の中でこの箇所が抜き出されたのだ。

 

そしてユダの、云い換えれば太宰のこうしたメンタリティは、他に例を挙げるならばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に出てくるスメルジャコフを彷彿とさせる。
彼もまた卑屈さと傲慢さを兼ね備えた人物であり、カラマーゾフ家の家長・フョードルの従僕でもあって彼を殺害するに至る。
両者に相関関係があるかどうかは素人の私には分からないが、誰もがドストエフスキー作品を読んでいた時代にあって、太宰が『カラマーゾフの兄弟』を読んでいなかったということはないだろう。そしておそらく太宰が最も共感を覚えるキャラクターは、スメルジャコフではないかと私は思う。


それはともかく、この小説の最大の肝となっているのは、終盤のくだりだ。

“「私がいま、その人に一つまみのパンを与えます。その人は、ずいぶん不仕合わせな男なのです。ほんとうに、その人は、生まれて来なかったほうが、よかった」”

この台詞は太宰作品に通底するキーワードとなる言葉でもあり、それを他ならぬイエスが口にすることでユダは裏切りを決意するに至る。ここに太宰がこの小説を書く理由があったと私は思う。そしてこの裏切り以降の描写に太宰の作家としての真髄がある。


“おや、そのお金は? 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀。なる程、はははは。いや、お断り申します。殴られぬうちに、その金ひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ! いいえ、ごめんなさい、いただきましょう。そうだ、私は商人だったのだ。(…)いやしめられている金銭で、あの人に見事、復讐してやるのだ。これが私に、いちばんふさわしい復讐の手段だ。”


“私は、あの人を愛していない。はじめから、みじんも愛していなかった。はい、旦那さま。私は嘘ばかり申し上げました。私は、金が欲しさにあの人について歩いたのです。おお、それにちがい無い。あの人が、ちっとも私に儲けさせてくれないと今夜見極めがついたから、そこは商人、素速く寝返りを打ったのだ。金。世の中は金だけだ”


一見露悪的とも取れるのだが、小説の〆として成り立たせるためには、きちんとした計算と、ユダである自分自身を冷静に客観視する態度がなければこの描写は出てこない。感情に任せて書いているように見えても、そこには冷徹な観察眼が光っている。

最後になってようやくこの主人公がイスカリオテのユダであることが明かされるが、それは多少なりとも聖書の知識がある人であれば、冒頭数ページを読むと自ずと理解できるので、重要なのはこのオチではない。
この引用の箇所を文字通り解釈すれば、ユダが裏切りの対価を受け取り、己は商人であるという自覚を強く意識することで、金銭、ひいては自分自身を卑しんできたイエスへの憎悪が爆発した、とも読めるのだが、自らを金の亡者、つまり悪人だと思い込むことでしか、裏切りへの罪悪感を払拭できない、愚かで弱いひとりの男としてのユダの姿を克明に浮かび上がらせていると私は感じた。そしてその弱さそのものを太宰は描きたかったのだと。

【活動報告】詩と俳句、千字掌編

■お知らせ
詩集『挽歌-elegy-』は、残部が少なくなってきたこともあり、また増刷の予定はないため、いったんここで通販を締め切ることにしました。
また来年5月の文フリ東京にて頒布する予定です。
出店が確定しましたら、また追ってお知らせいたします。
 
以下、いつもの活動報告です。
 
■俳句
相変わらずこの夏は臥せることが多く、おかげで普段より多くの俳句を詠みました。
今回詠んだ作品たちは自分の内面性と空想をふくらませた世界とをコラージュしたもので、これまでの作風とは少し異なる雰囲気になったかなと思います。
まだまだ模索中ですが、こういう手法をもっと磨いていきたいです。
http://star-bellflower06.tumblr.com/post/176730109012/逝夏

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■詩
旧暦の七夕に寄せて書きました。
そういう日ではないはずなのに、心に去来するのは亡くなった「あなた」の思い出です。ほのかに宮沢賢治リスペクトです。

http://star-bellflower06.tumblr.com/post/177091353867/あなたへ

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■千字掌編
パセリ流星群に千字ほどの掌編を寄稿いたしました。
谷崎潤一郎「刺青」にインスパイアされた架空の文士のお話です。
お読みになった方に“都々逸よろしく小気味良い文体”とご感想をいただきましたが、元々泉鏡花の影響もあって、こうしたリズミカルな文体が好きなので、書いていて大変楽しかったです。当時の雰囲気が伝わればいいなと思います。

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【活動報告】俳句・詩・SS

■俳句
この夏はすこぶる体調が悪く、寝込む日が続いたので俳句を詠みました。

http://star-bellflower06.tumblr.com/post/176295579102/午睡の夢-寝乱れて琅玕宮へ赴けり-寝乱れて臥遊に耽る盛夏かな-寝乱れて古歌を歌へる日暮れかな

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これまで自分のことを俳句に詠むということはあまりしてこなかったのですが、病で臥せっている自分というものを客体化してみるとなかなか面白くて、自分の中にある世界や思い出の断片とともに重ねてコラージュしてみました。まだ試行錯誤の段階ですが、たまにはまたこういう作品を詠んでみたいです。

 

■かもめソング

http://kamomesong.tumblr.com/post/176619686980/貴方へ

kamomesong.tumblr.com


詩を書きました。こちらもこれまでとは違って自分の実体験を詩に起こしてみたのですが、直接的に自分の内面性を歌った詩というのが好きになれないタイプなので、まだまだ改良の余地はありそうです。こちらもまだまだ実験段階ですね。

 

■SS

 

http://star-bellflower06.tumblr.com/post/176620694113/葉月唄

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こちらはいつも通りに完全に外の世界を描きました。先月観た市川崑の「悪魔の手鞠唄」のインパクトが強くて、わらべ歌テイストの詩を書くのが楽しいです。竹雀氏には「あやかし万華鏡」もわらべ歌の裏バージョンのような詩、と評してもらいましたが、兄と妹という関係性とわらべ歌の相性はなかなかよいようです。
志方あきこさんの「オトシモノ」にもだいぶ影響を受けています。「をかし」は本当に名盤ですよね。続編となる「あやし」も欲しいのですが、未だにお迎えするに至っていません。

をかし

をかし

 

 

あやし

あやし

 

 

 

さて予告です。


8/11 平成最後の夏をテーマにした詩を「紫水宮」に投稿予定
8/18 「パセリ流星群」に架空の文士を描いた千字掌編を掲載予定


公開され次第、またこちらで告知いたします。

上半期振り返り

今年は引っ越しもあり、また5月の東京文フリにサークルとして初めて出店したこともあり、かなり大きなターニングポイントとなる半年でした。


1月2月は引っ越し準備と『かもめソング』に寄稿した「翠の鳥」の原稿が重なってめまぐるしい忙しさでしたが、なんとか引っ越しを終えて、3月にはメンバーを自宅に招いて『かもめソング』合評会&校正会を催しました。


もともと大学の文芸サークルの同期メンバーたちで立ち上げたサークルなので、大学時代と同じ要領で合評会を進められたのは主宰としても大助かりでした。
5月の頒布に向けて、『かもめソング』の表紙と扉デザインを担当しつつ、自分の詩集『挽歌-elegy-』の方も進めないといけなかったのでそれなりに慌ただしかったです。もっとも詩集の原稿の大半は再録という形を取ったので、さほど苦労はなかったのですが。
版組などはすべて竹雀氏におんぶに抱っこ状態だったので、次回以降は自分でもちょっとでもできるようにがんばります……。お仕事で忙しい中申し訳なかったです。


文フリの戦果は初参加ということで推して知るべしという結果でしたが、身内分がだいぶ捌けて、おかげさまで完売までこぎ着けました。
『かもめソング』は完売しましたが、詩集『挽歌-elegy-』の方はただいまBOOTHにて通販を受け付けております。

star-bellflower.booth.pm

 

試し読みはこちらから。

kakuyomu.jp

 


その後はイベントの疲れもあってか体調を崩し気味で、年に何回もイベントに参加なさっている方々のバイタリティのすごさを実感しました。
委託という形で参加することもできるのでしょうが、直参は年に一度か二度が限度かなぁという感じです。


そして6月に入ってスケザネさんから新サークル・パセリ流星群へのお誘いをいただきました。

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7月15日にサークルが立ち上がって、今のところ詩を寄稿していますが、自分の主宰しているかもめソングと差別化を図りたいので、次回は千字ほどの掌編を載せる予定になっています。その後は連作短編を書けたらなと思っています。
昨日はその顔合わせということで、終始和やかな雰囲気で飲んできました。メンバー全員六人六様に活動をしているので、活動の幅もどんどん広がっていきそうで今後が楽しみです。

 

■今後のイベント参加予定まとめ
2018年11月文フリ東京 酒アンソロに短編を寄稿予定
2019年5月文フリ東京 第二詩集と短編集を頒布予定
2020年5月文フリ東京 パセリ流星群合同誌に短編を寄稿予定

 

今のところはこんなところでしょうか。
テキレボにも参加してみたいという気持ちはあるのですが、今のところ一般参加にとどまっています。
7月の一般参加の折りのレポを書きたいなとも思ったのですが、戦利品の感想をTwitterモーメントにまとめるという形で代用したいと思います。
まだまだ積んでいる本が多いので、少しずつでも拝読していきたいです。

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言葉について

先日ヘミングウェイ読書会で、竹雀氏と常磐行人氏と同席したのだが、その際に英語の持つ多義性についての議論になった。

漢文に詳しい竹雀氏は同じグローバルな言語であっても、漢文というのはより厳密に語義を定義し、千年経っても揺らがないところがいいと話していた。しかし私は英語や漢語よりも日本語の曖昧さや言葉の響きに惹かれる。
日本語の美については谷崎潤一郎が『文章読本』の中で言葉を尽くして書いていて、私も非常に影響を受けたので、今更私が云うまでもない。

 

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

 

ただ、日本語の音の響き、これだけは確固とした持論がある。
小説や詩を書くとき、何よりも私が重視するのは音の響きで、たとえば衣なら「きぬ」と読ませたいし、魚なら「うお」と読んでほしい。しかし音に徹底的にこだわり、小説に総ルビを振った鏡花のように私は親切ではないから、そう読みたいと思う人に届けばいいと思っている。「ころも」や「さかな」と読んだところで問題はない。ただ「きぬ」「うお」と読んだ人にだけ自分の文章の魅力が感じられれば、それでいい。

 

そういう読者と著者の間にある暗号として、詩などはあえてルビを振らないこともあるが、さすがに小説を書く場合に初出のときには「きぬ」「うお」とルビを振る。しかしルビというのはいつしか忘れてしまうものでもあるから、はじめこそ「きぬ」「うお」と読んでいても、文章を読み進めるうちに「ころも」「さかな」と読む人もいるかもしれない。それは読者の自由に任せたいと思う。


自分のペンネームにしても「あめとぎしおん」と読むのか「あまとぎしおん」と読むのかは読み手にお任せしている。自分自身両方を渾然一体となって使うことも多い。どちらにせよ「雨伽詩音」という字面は変わらない。心地のいい音を選ぶなら「あまとぎしおん」なのだろうけども。


音の響きにこだわるのは、自分自身が聴覚過敏で耳障りな音を好まないというのが大きいのだろうと思う。私の書く多くの詩は語りの文体で綴られているし、『かもめソング』に寄稿した「翠の鳥」も自分の耳にとって心地よい言葉の配列にならって文章を書いた。常磐氏はそれを「ボイス」と評したが、私のボイスの根底にあるのはこの耳に心地よいか否かという言葉の取捨選択のあり方なのだろうと思う。


他の人の文章を赤入れするときにもその癖は反映されていて、谷崎潤一郎も『文章読本』の中で

文章を綴る場合に、まずその文句を実際に声に出して暗誦し、それがすらすらと云えるかどうかを試してみることが必要であります

と記している。他者の文章を読んでいて、音が滞るところや、無意識のうちに何度も同じ言葉が繰り返される箇所は適宜赤を入れている。語義にこだわるというよりは音にこだわる。そこには文学的な聴覚が勘となってはたらくのだろう。大前提として、もちろん語義に違和感を感じるところには赤を入れるが。

 

実際詩集『挽歌-elegy-』を作る上でも、幾度自分の書いた詩を朗読したか数えきれない。自分にとって至上の音楽を奏でるように言葉を綴るのは、私が文章を書く上でもっとも喜ばしいと感じる瞬間でもある。

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また手製本アンソロジー『べんぜんかん』に寄稿した「霊亀譚」を書いたとき、執筆陣のメンバーの方から「流麗な文体」と褒めていただいたが、私の目指すところはまさに谷崎の云う「流麗な調子」あるいは「源氏物語派の文章」であって、その文体を築き上げるがために小説を書いている節はある。

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もっとも竹雀氏からは文体にこだわるべきではないという旨の指摘を受けたし、小説の核となるものは文体ではないのかもしれないが、私にとって文体とは磨き上げるべきものでもあり、また青天井を見上げるような心地をもたらすものでもある。磨いても磨いてもまだ足りないという飢餓感が私を創作へと駆り立てているのだ。
今後小説を書いていくにあたっても、まず文体を意識せざるを得ないのは変わらないだろうし、変えるつもりもない。