広寒宮

アマチュア作家・雨伽詩音の活動報告その他諸々

【活動報告】廃都に冬来たり

◇掌編

惜春記

長いので折り畳みますが、オンラインに載せる小説としては久しぶりの作品なので、普段私の書く小説を読まない方々にぜひ読んでいただきたいです。

高知県立大学の蔵書の焼却処分問題に衝撃を受けたのと、両親によって自分自身の蔵書を守れないのではないかという現実の危機に直面したこと、数年前に自死をぼんやり考えていたときに「自分の蔵書はどうなってしまうのだろう」と考えたことなどが下敷きになっています。

www.fnn.jp

こういうツイートを見てしまうといろいろと考えてしまって……。そういうもやもやを掬い上げたくてこの掌編を書きました。

伊藤計劃にはだいぶ影響を受けています。

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 ハーモニーはもうかれこれ三四度ほど読んでいて、ミァハが蔵書を焼却処分する描写はいつまでも心に残っています。彼女の元ネタは云うまでもなく『華氏451度』のクラリスなんですが。

屍者の帝国 [Blu-ray]
 

それから劇場版「屍者の帝国」を観たときに、死者の言葉をいかに扱うかという問題をはじめて意識したこともこの作品のベースになっています。同時に宗教はSFという世界で生き残れるのか? という疑問も反映させました。

いま世界の哲学者が考えていること

いま世界の哲学者が考えていること

 

 この辺はこの本が種本になっています。

 

◇Twitter300字SS

http://star-bellflower06.tumblr.com/post/182496837884/歌姫の春

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お題が「薬」ということだったので、いつもなら間違いなく「毒薬」を選んだと思うのですが、先日久しぶりに失声症の症状が出たのでこういう詩になりました。西洋風の詩の抽斗が欲しいです……切実に。

 

 

◇詩

http://star-bellflower06.tumblr.com/post/182471763152/かぐや姫の歌

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自分だけのかぐや姫の物語を描いてみたくて詩にしてみたものの、詩という形式で収まるものではないので、いずれ小説にしたいなと思った一作です。夜に夢幻に遊ばなくなってしまって久しいのですが、かぐや姫ごっこは私のお気に入りの遊びのひとつでした。

 

http://star-bellflower06.tumblr.com/post/182653208932/或詩人

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金井美恵子が「小説が書けないこと」を小説にしていたので、私も「詩が書けないこと」を詩にしようと思って書きました。

 書けないという圧倒的な世界に閉じ込められていると感じる時、すでにわたしは書きはじめようとしているのではないか。そして、これは多分作家というものが誰しもそうであるように、わたしは自分の書いた小説(…)よりも、読むことの出来る無数の好きな作品を読むことのほうが好きなのだ。読むということにつきまとう、嫉妬を含めて。――金井美恵子プラトン的恋愛」

こうした旅行につき纏って、いつも小説のノートを持って行ったことを思い出し、常にまだ書かれずにいる小説の最初の呼びかけの声をきこうとしていたことを、わたしは涙ぐましくなりながら西陽で湯の表面が桃色の金属のように輝いている風呂場の中で思い出したりした。――金井美恵子プラトン的恋愛」 

あなたが決して書かなかった部分ーーいうまでもなく、御存知とは思いますが、あなたの書いたのはほんの一部分で、書かれなかった部分のほうが圧倒的に多いのですがーーその、書かれなかった時間の連続性のなかで、ぼくは生きているのではないでしょうか。 金井美恵子「窓」

ピクニック、その他の短篇 (講談社文芸文庫)

ピクニック、その他の短篇 (講談社文芸文庫)

 

 ちなみに「詩人の末期は儚いものです」と書いたときに、筋肉少女帯の「サーチライト」の「詩人の末路は哀れと聞くぜ」を思い出して胸が痛くなりました。ひりつくような私の青春の一曲です。


サーチライト

 

◇俳句

http://star-bellflower06.tumblr.com/post/182317367862/廃都に冬来たり

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http://star-bellflower06.tumblr.com/post/182127875897/睦月幻想

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一月は月初めからずっと体調を崩していて、おかげで俳句を詠むのがはかどりました。

西洋風の句もどんどん挑戦していきたいなと思っています。

神話をベースにした「神牀にかつて重ねし足環かな」が個人的には気に入っているのですが、裕真さんからは「絶滅せる鳥を作りし機械工」が好きというお言葉をいただきました。ありがたいです。

「真紅なり白兎屠れる兄の靴」は葛原妙子を意識してみました。彼女の短歌はまだきちんとした形で読めていないので、まだまだ学ぶべきところが多そうです。

 

【お題参加】雪へのあこがれ

今週のお題「雪」

南国育ちなので、雪にはあこがれがあります。

その思いを形にした自作の詩をいくつかご紹介します。

 

http://star-bellflower06.tumblr.com/post/173416683977/白狐譚

star-bellflower06.tumblr.com

 

こちらは李白の詩に影響を受けて書きました。最近はこういう中華風の詩からは遠ざかりつつあるので、また原点回帰ということで漢詩の勉強も続けて行きたいですね。

もともとは「杜子春」にまつわる論文を読んでいて、そこから芋づる式にたどり着いたのでした。

ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp

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こういう勉強は本当に大事だなと痛感しています……最近は娯楽で本を読むことが多いので自分にむち打って励まねば。

 

 

 

http://star-bellflower06.tumblr.com/post/182821393837/地獄の白百合

star-bellflower06.tumblr.com

こちらは最近公開したばかりの詩です。雪女へのフェティシズムは確実に自分の中にあって、それはおそらく鏡花の「陽炎座」から来ていると思うんですが、地獄で泣いている雪女がいじらしくて愛おしくて……鈴木清順の「陽炎座」にもそういう一場面が出てきますね。一昨年前に久しぶりにスクリーンで観たのですが、やっぱり一番好きな邦画だなぁと実感したのでした。

 

陽炎座

陽炎座

 
陽炎座

陽炎座

 

 

 

 

 ちなみに昨年頒布した処女詩集『挽歌-elegy-』にも雪女の詩を収録しています。

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 こちらは5/6の文フリ東京にて再頒布する予定でおりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

試し読みはこちらから。

kakuyomu.jp

 

【お題参加】はじめての自分チョコ

今週のお題「わたしとバレンタインデー」

はじめて自分チョコなるものを買ってみた。

というのもTwitterで歌仙チョコなるものを見かけて、これはぜひねんどろいど歌仙ちゃんと撮らねばという想いに駆られたからだ。

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刀剣乱舞からは少々距離を置いてしまったとは云え、オタクの性根というものはそう簡単に消えるものではないらしい。

ここに二振りのぬーどるストッパー歌仙ちゃんがいたらなおいっそう映えただろうにと思うけれども、あいにくと人に譲ってしまって手元にない。

それでもこうしてしつらえてあげれば、ねんどろいど歌仙ちゃんも心なしかうれしそうだ。

こうしてキャラクターらしさに重きを置いたチョコを選ぶということは自分チョコならではの楽しみでもある。

私にはオタク友達というものがほとんどいないので、こうしてSNSに写真を載せるのがせいぜいの楽しみだが、仲間内で自慢の推しとチョコレートの写真をを送りあってみるのも楽しそうだと思う。

ここのところ体調を崩していることもあって、こうした遊びに興じると心がほっとする。

もっとねんどろいど歌仙ちゃんと遊びたい。

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お香を聞いて遊んだり、ひとり歌会と称して気に入った和歌をノートに書き写したりするお供に歌仙ちゃんほどふさわしい相手はいない。

先だってはスケールフィギュアの歌仙ちゃんも予約した。

今から届くのが愉しみだ。

これからも歌仙兼定という刀を大事に大事に愛でていきたい。

【読書感想】萩原朔太郎『月に吠える 萩原朔太郎詩集』

去年のベスト本、萩原朔太郎の『月に吠える』を再読した。

月に吠える―萩原朔太郎詩集 (角川文庫)

月に吠える―萩原朔太郎詩集 (角川文庫)

 

 昨年の秋頃に高校時代ぶりに朔太郎と再会し、その後彼のエッセイの数々や三好達治の『萩原朔太郎』、『国文学 鑑賞と解釈 萩原朔太郎』などを通読した。 

萩原朔太郎 (講談社文芸文庫)

萩原朔太郎 (講談社文芸文庫)

 

 その上であらためて朔太郎を手に取ろうと思ったきっかけは、昨年の秋とは違って私の上に孤独と抑うつがのしかかってきていたからであり、自分の力ではなすすべもないこのふたつの代物を持て余して、友を求めるようにこの詩集を手に取った。

なるほど、朔太郎の詩は私の心に寄り添い、私に代わって絶唱し、私をやさしくなぐさめてくれた。

ああ今私はたしかに彼の言葉を求めていたのだと感じずにはいられなかった。

 

しかし一方で、私の冷徹な目は「月に吠える」「青猫」に比べて「純情小曲集」「氷島」を批判せずにはいられなかった。なるほど、病みつかれた心に“あやめ香水の匂い”の「純情小曲集」は匂やかに香り立ち、私を癒してはくれたが、この詩集にはもはや「月に吠える」や「青猫」のような他を圧する個性や力強さはない。 

おそらく朔太郎も疲れていたのだ。東京という土地に、世間に、そして妻というものに。

たとえ文語詩が彼にとって必然の産物であったとしても、文語の言葉の弱さ、そこにつきまとう詩の外にあるイメージが朔太郎の詩、ひいては彼自身の言葉を破壊してしまっているように思えてならない。 

三好達治が舌鋒鋭く批判したように「氷島」の出来も悪い。天賦の才能に恵まれながらも、その才能と青春のほの暗いきらめきが一瞬交錯して見事な光を放った人、という風に私には見える。

実際、朔太郎自身も随筆「僕の孤独癖について」の中で

その代わりに、詩は年齢とともに拙くなって来た、つまり僕は次第に世俗の凡人に変化しつつあるのである。 

 と記している。 

これは創作に携わる人間の宿命とも云っていい問題で、決して他人事ではない。

朔太郎はたしかに天才だ。しかし才能というものは有限で、時間の経過とともに衰えたり、ついには消え去ってしまう。そのことを自覚した彼が、私にはなによりも愛おしい。孤独をこじらせて詩に思いの丈をぶつけていた頃よりも、むしろ己の才能の限界に直面し、それでもなお詩を書かざるを得なかった彼がかぎりなくいとおしいのだ。

 

なお、「国文学と鑑賞」を読んでからこの詩集を再読したこともあって、次から次へと詩を読むごとに「この描写は朔太郎特有の特異な表現だな」ということを改めて認識したのだけれど、詩を鑑賞するのにそのような知識が必要だろうか。 

歌でも絵でもほんとうに鑑賞するということは、すべての先入観や偏見を忘れることであり、無心で付き合うことが大切だと思う――白洲正子『私の百人一首

私の百人一首 (新潮文庫)

私の百人一首 (新潮文庫)

 

 と説いた白洲正子のように 、詩もまた感ずるままに感ずるのがよいのだと思う。

【読書感想】日夏耿之介詩集

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 日夏耿之介との出会いは大学時代に遡る。

当時国文科の近代詩の講義を受けていた私は、その頃親交のあった女の子が日夏耿之介が好きと口にしていたこともあり、また講義のテキストでも「ゴシックロマンな詩」として紹介されて気になっていたのだが、実際にその詩に触れたのは、以前通っていた図書館でのことで、それからしばらくは離れていたのだけれど、先日新たに通うことに鳴った図書館で本棚を見るともなく見ているとこの詩集と目が合ってしまったのだ。

 

なにかしら運命的なものを感じて借りて家に持ち帰り、読み進めて行くうちに、「ああこれは今まさに私が読むべくして出会った本なのだ」という実感が湧いてきた。読書好きならば覚えのある体験だと思うが、この時ほど「本を読んでいてよかった」と思う瞬間はない。

芸術は人間最高の心的活動の一である。鈍劣不遜の民人が頓悟して此の秘壇を垣間見んとならば、若き沙門の修道の如き心にして其の知見の誇りを捨て芸術の理想大旛の前に跪拝せよ――日夏耿之介「詩集 転身の頌序」

ここのところ詩作に行き詰まっていた私は、美を至高のものとして仰ぎ見るということをいつの間にか忘れかけていた。その心を諭してくれたように思って、この一文にはっとしたのだ。 

「王領のめざめ」や、ヨハネの黙示録を彷彿とさせる「海底世界」、麗しい「真珠母の夢」の絢爛豪華で美しい詩の数々に私は夢心地になったが、病みつかれた私の心を癒してくれたのは次のような詩たちだった。

 

夜風も淫りがましい五月の夜

病後の身は

新鮮な万物に手をとって迎へられるまま

天上の月かげにも

狂ほしく甘え心地で

魚のやうに泳ぎまはり

――日夏耿之介「しかし笛の音はない夜のこと」

 

賢人よ

宵(ゆふべ)の紅(あけ)に心かなしみ

月もなき夜半をも嘆かずにあれ

渋面(しか)める闇は日輪(ひ)をいただき

小さくかろき館(やかた)なる椽(たるき)を染めむ

――日夏耿之介「賢こき風」

 

訖(つひ)にいま

己が肌(はだえ)に快い微風を感じ

風防林の一角よりは

入浴後(ゆあがり)のやうな満月が円円とさしのぼった

月(そ)の光は銀糸のやうに震慄(ふる)へて

蒼白い紗の帳(とばり)引く内陣に滲み透る

そこで大そう疲憊(つかれ)を感じたゆゑ

舎人(とねり)らはひとりびとり

己が古城の神前の巌丈な悒鬱な

ただくろ(黒+㐱)い

樫材(かし)の寝棺で仮睡(ねむ)りたいのだ

――日夏耿之介「神前に在りて」

 

正直なところ、ここまで日夏耿之介の詩に心ゆだねることができるということは、あまり想像していなくて、ただ耽美で美しい詩の数々を堪能するつもりでいたのだが、いつの間にか詩の世界に入り込み、ああやはり詩というものは内面を謳わなければだめなのだとも感じた。

 

しかし私が最も驚いたのは、日夏耿之介の「再刻本の序」の次の一文であった。

私の作風はもとより時尚を追うて転々する青年士女の一瞥に依る嗜好を牽きうるものではなかった。(…)けれども当時の詩壇は、現詩壇のごとくに私にとつては不快な空気の場所で、自分の思想も感情も趣味性も一々丁寧に説明するに非ずんば(説明しても駄目の場合が多かったが)、理解しがたい無縁の衆民であつたから私は種々の慢罵に堪へて依然として私の作風を固守しなければならなかった。ーー日夏耿之介「再刻本の序」

 

 その苦しい心境は「黒衣聖母の序」にも記されている。

 

詩の上に限つて見ればこそ、他人が功業をも優に大成したる十幾歳の長明を費やして、辛うじて幾分の自信と幾分の批判力とを有するようにはなつたのだけれども、己れの心生活の全域にわたつて考へてみれば、かかる夥しき時間の浪費をも遂に何等の成果を齎さなかつた。出来るだけは努め、あがけるだけはあがき、疑惑し、妬視し、奮躍し、放心し、逡巡と躊躇と踠転と盲進と醜い独り相撲を繰り返して今日得たところのものは依稀とした空虚である。無智である。軽挙妄動である。猜疑と悪あがきと無言の絶望と小乗の忍従である。――日夏耿之介「黒衣聖母の序」

 

 あの日夏耿之介ともあろう詩人が己の作風に対してここまで苦闘を強いられ、悩み抜いていたとはつゆほどにも知らなかった。私は身勝手にも彼が達観の境地にまで達して、このきらびやかな詩の数々を残したのだと思っていたのだ。ゴシックロマンの旗手として、堂々と世に名を轟かせていたのだとばかり勘違いしていた。

 

私の詩には人間心の赫爠たる遍照も、目ざましい飛躍もない(…)本集の仮にゴスィック・ロマーン詩体ともいはばいふべき詩風は私の思想感情を領している傾向の結果であるが、最近の私といふ人間の思想感情はこれらの詩によつて最も妥当に表現せらる。私の退嬰性と向日性と不安性とわたしの感情の沈鬱とはこの表現に委曲を尽くしてゐるのであるから、私の都に不快感を感じる人は句文の末端まで私を不快とし、私の都てに好感を感じる人はかかる末節まで私を信愛するであらう。(…)所詮、偉大な詩篇は、わが内生の晴坑を掘り下げて行った最も真摯にして委曲をつくせる感情の記録である。――日夏耿之介「黒衣聖母の序」

しかしここで日夏はひとつの結論に達する。それはただ己の詩を好む読者を信じ、彼および彼女のためだけに詩を書くということだ。

 

それは巻末の佐藤正彰「研究 日夏耿之介論」でも論じられている。

かくしてこの詩は「思想上の貴人」が相手である。作者は公衆に追随して作者の註文を己に適合させる代わりに、作者に追随して作者の註文に己れを適合させるやうな公衆をめあてに、殆んどそのやうな理想的読者を仮定して、創作する。つまりは現在未来の読者への顧慮を放擲してゐるに等しい。

“「なるべく自分の生の限りの心持ちを正直に緻密に丹念に言葉の様式で表はそうとするだけで(…)文字や用語が読者に難解かどうかは全然考へたことはない。「死後の名を苦慮」するのでもない」(『黄眠詩教義問答』)”

明治以降、我が国の詩人でこれほど一途に自己の純潔を守り通し、それによって自己の個性を徹底実現し得た詩人を私は他に知らぬ。

これは詩人と自己と自己の芸術とにたいする厳重な検討の果ての信仰告白(プロフェッション・ド・フォワ)であり(…)この独自の詩的表現は屢屢非難されたやうな趣味とか、衒ひなどといふ余裕のあるものではなく、氏にとつては己の詩想を盛る唯一ののつぴきならなぬものであり、これを好まぬならば即ち日夏耿之介そのものを好まぬに外ならない。この極めて個性的な詩人には、この極めて個性的な言語形式が必然であり、本質である。――佐藤佐藤正彰「研究 日夏耿之介論」

 朔太郎の文語詩が彼にとって必然性を纏っていたように、日夏耿之介の詩もまた必然性の産物であったのだということに、私はいたく勇気づけられた。

まことに不遜ながら、私は詩や小説を書く中で、文体を批判されることが多かった。難解と云われることもあれば、これでは長編は書けないとまで云われた。しかし私にとってもまた私の文体は必然性を伴っているのだと、この詩論を読んで、ようやく心から納得することができた。

詩作の感覚を取り戻すにはまだまだ時間がかかるだろう。それでも私は詩を書くことを諦めたくはない。

長編にも挑みたいと思っている。だがあくまでも私は私の小説を書くつもりだ。他の誰でもない、私だけの小説を。

 

【エッセイ】ディレッタントの悦楽

小説を読んでいて私が愛してやまないのは、小説の中の主人公が、芸術書などの書物を自在に床に広げて、あるいは部屋に持ち込んで耽読する場面だ。

それから私は、今迄親しんで居た哲学や芸術に関する書類を一切戸棚に片附けて了って、魔術だの、催眠術だの、探偵小説だの、化学だの、解剖学だのの奇怪な説話と挿絵に富んでいる書物を、さながら土用干しの如く部屋中に置き散らして、寝転びながら、手当たり次第に繰りひろげては耽読した。その中には、コナンドイルのThe Sign of Fourや、ドキンシイのMurder,Considered as one of the fine artsや、アラビアンナイトのようなお伽噺から、仏蘭西(フランス)の不思議なSexoulogyの本なども交っていた。

此処の住職が秘していた地獄極楽の図を始め、須弥山図だの涅槃像だの、いろいろの、古い仏画を強いて懇望して、丁度学校の教員室に掛かっている地図のように、所嫌わず部屋の四壁へぶら下げて見た。床の間の香炉からは、始終紫色の香の煙が真っ直ぐ静かに立ち昇って、明るい暖かい室内を焚きしめて居た。私は時々菊屋橋際(ぎわ)の舗(みせ)へ行って白檀や沈香を買って来てはそれを燻(く)べた。

 ――谷崎潤一郎「秘密」

刺青・秘密 (新潮文庫)

刺青・秘密 (新潮文庫)

 

 

 ある日私は風邪気味で学校を休まされたのをよいことに、父の外国土産の画集を幾冊か部屋にもちこんで丹念に眺めていた。とりわけ伊太利(イタリー)諸都市の美術館の案内が、そこに見られる希臘(ギリシャ)彫刻の写真版で私を魅した。幾多の名画も、裸体がえがかれているかぎりにおいて、黒白の写真版のほうが私の好みに合った。それはおそらく、そのほうがリアルに見えるからという単純な理由によってであった。

――三島由紀夫仮面の告白』  

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 

 

特に谷崎の秘密などは「これぞ読書家にとっての最高の贅沢」と思わせる書きぶりに夢中になってしまう。絵画の言葉で云うならば「画中画」とでも云おうか、あるいは「書中書」とでも云おうか、そこに入れ子構造のように本の世界が展開される面白さがあるとともに、私が愛する臥遊(がゆう)の境地が描かれているように思われてならないからだ。

 

デジタル大辞泉から引用すると「臥遊」とは、

 
床にふしながら旅行記を読んだり、地図や風景画を眺めたりして自然の中に遊ぶこと。中国、東晋の画家宗炳(そうへい)が居所の壁にかつて歩いた山水を描いて楽しんだ故事による。

kotobank.jp

 という行為で、私は気の赴くままに展覧会の図録や、美術展で買ったポストカードなどを机に並べて眺めるのを趣味としているのだが、「秘密」や『仮面の告白』に描かれた主人公も同じ楽しみを味わっているのかと思うとうれしくなる。

 

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 こちらが私の図録・ポストカードコレクションの一部だ。疲れたときにはこれらを眺めながらぼーっと絵画の中に自らを置いて夢想する。仏像・仏画の場合は心癒され、風景がの場合は心遊ばせ、そして人物画の場合はその人物の心に思いを馳せる。

そうした楽しみが私を現実の疎ましさから逃れさせてくれるのだ。

まだまだ買い逃してしまった図録は多いし、行きそびれた展示も数知れないけれど、家に居ながらにして絵を楽しむという遊びはこれからも催していきたい。

私の図書館活用法

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先日図書館へふたたび足を運んだ。

予約して取り寄せた本を受け取るためでもあったが、家の蔵書の中に読みたい本は山積しているし、新たに本を借りる余裕はない。

そこで私は古典文学全集が並んでいる棚に行って、明治文学全集の棚から泉鏡花の巻と国木田独歩の巻を選んだ。

彼らの作品を読むためでなく、随筆や他の文筆家が書いた評論をコピーするためだ。

 

明治文學全集 21 泉鏡花集

明治文學全集 21 泉鏡花集

 

 

 

 大学の泉鏡花にまつわる講義で市原豊太の「天才泉鏡花」という跋文を知ってから、ずっと読みたいと思っていたのだったが、まさかこの本に入っているとは思わず、いい拾い物をした。

まず天才の定義として、市原は

“彼は或ることがらを徹底的に愛する、又は崇拝する。そのことに關する限り誰も彼ほどの愛情も景慕をも信頼をも、研鑽をも、努力精進をも、それから得られる幸福をも、そこに伴ふ苦惱をも、淋しさをも、到底知ることができない” 

とし、

“鏡花がどういふ生活人であつたかはよく知らない。併し少くとも彼の作品のどれをとつて見ても、それがみぎに考へたやうな、獨特と、卓抜と、徹底と、世間知らずと、間尺に合はなさ加減と、高貴さと、底の知れぬ或る愛情と、小兒の如き崇拜と、青年の如き純粋さを持つた人の仕事であると感じさせないものはない。その作中にあはされる諸々の人物の行藏がそのやうであり、またその文章もそのやうである(…)それは、彼等が皆、或るそれぞれの「内なる靈の聲」に導かれてゐる宿命の人々であり、その宿命のまに、各〻何かを痛切に愛慕して止まず、絶對的な「信」のために、他の何ものをも畏れず、その歸依の道を貫くからである”

と説く。まさに鏡花の仕事の全容を端的に表した言葉だ。今迷子状態になっている自分にとって、信念を貫き、美を至高のものとして仰ぎ続けた鏡花の姿が励ましと勇気を与えてくれる気がした。私は天才ではないし、才能はみじんもないけれども、少しでもあやかりたいと、このコピーをファイルにしまった。

 


国木田独歩の方は「我は如何にして小説家となりしか」という随筆をコピーした。以前読んだ評伝に、「独歩は生活のためには筆を執らなかった。そのため彼の作品に駄作はない」と記されていて、いたく感銘を受けたものだが、この随筆にも

“「誤解されては困ります。自分は今日まで衣食を得る方法として文章を書いたという丈(だ)けの事で、則ち自分の實際を申し上げたので、『文藝は衣食を得る藝當に過ぎず』などとは夢にも思ひません。文藝それ自身の目的の高尚なる事は承知して居ます。又た自分の作物は自分が心真(まこと)に感得して得たるを正直に書いたもので、それが文藝の光輝を幾分が發揮して居るといふ自信及び満足も持つて居ます。”

と記されている。

そういうところが独歩の魅力の最たるものなのだと改めて感じた。

独歩の小説には久しく触れていないが、好きな小説はいくつもある。特に「忘れえぬ人々」「たき火」は折に触れて読み返す。 

忘れえぬ人々

忘れえぬ人々

 

 

たき火

たき火

 

 ちなみに以前読んだ評伝というのはこちらだ。これは以前通っていた図書館で借りたもので、ずいぶんと古い本だが、その風合いもまたなつかしい記憶の一部として心にとどまっている。

 

そもそもこのエッセイを書きはじめたのは、かもめメンバーの御影あやさんのエッセイに触発されたからということもある。

h7pno5ia.com

あやさんは税金と図書館との関係に触れていて、とても興味深かったのでぜひ読んでいただきたいのだが、図書館を活用する方法はなにも本を借りるということだけではなく、こうして古典文学全集から自分の興味を引かれる箇所をコピーして、家に蓄積させていくだけでも十分に意義があると思う。

実際、前に通っていた図書館ではコピーを取るのに許可証を書かずに済んでいたので、新釈漢文大系や李白全集、中国文化伝来事典といった資料を、制約を守った上で思う存分コピーすることができた。

 

唐代伝奇 新釈漢文大系 (44)

唐代伝奇 新釈漢文大系 (44)

 

 

新編日本古典文学全集 (58) 謡曲集 (1)

新編日本古典文学全集 (58) 謡曲集 (1)

 

 

新編日本古典文学全集 (59) 謡曲集 (2)

新編日本古典文学全集 (59) 謡曲集 (2)

 
中国文化伝来事典

中国文化伝来事典

 

こういう本は個人で買って所有しておいてもいいのだけれど、図書館へ行ってコピーすると、あたかもそれが今日の収穫物のように思えていとおしくなる。書くものに行き詰まれば本棚からコピーの束を引っ張りだして無心に眺める。

そういうひとときが私の詩を作り、私の小説を生み出してきたのだと思うと、たとえ小さな行為であっても軽んじることはできない。

図書館という場所の利用法は千差万別、十人十色だと思う。そんな中で自分なりに一番合った使い方を見つけていきたいと思う。