広寒宮

アマチュア作家・雨伽詩音の活動報告その他諸々

文学フリマ東京、欠席します

前にも一度お伝えしましたが、5/6の文フリ東京を欠席します。

作品を待っていてくださった皆様、まことに申し訳ございません。

 

理由は体調不良と、どうしても外せない予定が前日まで入ってしまったためです。

製本作業中に大きく体調を崩し、現在の様子では、予定の翌日にイベントに出ることが難しいと思われるので、このような形になりました。

なお、当日頒布する予定だった詩集『真珠姫の恋』と句集『揺籃忌』につきましては、後日入稿して同人誌にするつもりです。

また日を改めて、イベントで直接or委託頒布できればと思っております。

ただいかんせん病状が良くないので、今すぐ次のイベントを、というのはなかなか難しいというのが現状です。

しばらくは通販のみでのご案内となることも予想されますので、あらかじめご了承ください。

同人誌に関することにつきましては、また追ってお知らせいたします。

 

なお、オンラインでの活動につきましては、これまで通りやっていくつもりです。

かもめソングでの詩の発表や、ネプリへの参加、個人サイトの運営などはこれまでと変わりなく行っていきたいと思っています。

 

そこでお詫びと云ってはなんですが、昨年合同誌『かもめソング』に寄稿した「翠の鳥」5/10にカクヨムにて公開いたします。

王朝ものを意識した、和漢折衷ファンタジー短編小説です。

そもそもこの小説を書くに至ったきっかけは、こちらの「翠の鳥」という詩が発端だったのですが、これを小説として大きく仕立て直した作品になります。主人公のポジションも異なるので、ぜひ本編でお確かめください。

http://kamomesong.tumblr.com/post/157978380371/%E7%BF%A0%E3%81%AE%E9%B3%A5

kamomesong.tumblr.com

 

ちなみにこの作品にはスケザネさんからご丁寧なご感想をいただいております。

evie-11.hatenablog.com

併せてご覧いただければ幸いです。

止まった時間を動かしたい

院進ができないことが確実になった日からもう4年が経つ。あれからいろんなことがあって、得難い人たちとの出会いの中で少しずつ心が癒されつつあるけども、仕事をしていない私の時間はあの時のまま止まっている気がする、という話を彼にしたところ、「もう一度勉強してみたら」という言葉が返ってきた。

創作のクオリティを磨いていく上でも勉強は必須だし、そうして再び止まっていた時間が動き出すのなら、それに越したことはない。

#文系理系アンソロへの参加も決まり、再び記紀神話と向き合ってみようと決意を固めた。

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大学を出てなにかとお世話になっている國學院の研究雑誌『新國學』を久しぶりに読み返して、山﨑かおり氏の論文から芋づる式に『國學院雑誌』を取り寄せることにし、日本の古本屋で益田勝実の記紀神話研究の本を迎えた。

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こうして本を探していくのは卒論に夢中だった頃を彷彿とさせて懐かしい。学ぶ喜びというものを改めて噛みしめた。

また神話の勉強がすぐに創作に結びつくかどうかはわからないが、物語の祖型はすべて神話に集約される。

そう考えると決して無駄にはならないだろう。

体調面での不安もあり、大学院を受験することは今のところ考えていないが、本を買って学ぶことはどんな環境に置かれていてもできる。

 

そうした中で「ここは間違いない」という学術系出版社や、日本の古本屋を通じて本を買うことで、個人経営の古書店を少しでも応援できればいいなと思う。

以前、アジア遊学という東アジア全般にわたるさまざまな事物を扱った叢書を出版している勉誠出版アジア諸国に対するヘイト本を刊行したことが話題になった。

私はすぐさまアジア遊学を二冊、新品で購入した。

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Twitterでは勉誠出版を危ぶむ声が多かったけども、Twitterで声を上げるだけでは何も始まらない。

自分が良書だと思う本を買うことで、少しでも出版社によりいい本を出してもらう方がよっぽど理にかなっていると思う。

勉強したいことはたくさんある。記紀神話だけでなく、日本古代史、宗教学、民俗学、和歌、中国史など。おそらくこれらの点はひとつの線で繋がっているはずなので、日々無気力で死にそうになっている今だからこそ、知的好奇心を鈍らせないように励みたい。

今、そこにあるリアル

昨年の秋頃からだったか、小説というものが読めなくなってしまった。小説なりアニメなり映画なり、フィクションの世界でわくわくすること、心躍ることに対して疲れてしまうという意識が頭をもたげてきてしまい、ドキドキしたくない、不安になりたくないという気持ちが加わって、フィクションを遠ざけるようになった。

病院で診察を受けると、診断名はうつだった。そりゃわくわくしたくもなくなるわけだ、と思ったが、かといって小説を読まないということも私の心を苛んだ。それまで苦もなく読めていたものが読めなくなるという云いようのない苦痛は耐え難いものがある。


TLを見れば読んだ本の感想が絶え間なく流れてきて、本を読めない私を責めているようで、TLをたどるのもつらくなった。そのうちTLをほとんど追わなくなったが、だからといって本が読めないという事案が解決するわけでもない。

そうしたフィクションへの抵抗感とともに私を絶えず困らせていたのが「寂しい」という感情だった。去年の秋頃まではあまり感じていなかったのに、日がな一日寂しさを持て余すことが多くなり、孤独感はますます病を篤くした。


そうしたことを昨日彼と話した。すると「本を読むことは本と自分との会話だと俺は思っている」という言葉を告げられた。「人と話すのとはまた違うけれど、本を読むことだって話すことだと思うよ」と。
それまで言葉を受容するだけだった本というメディアが、このとき再び私の無二の友として現れた瞬間だった。

 

そしてそれから彼が席を外している間に、無性に現代小説を読みたいと思った。
これまで現代という時代を忌避し、疎ましく思ってきたのに、登場人物と同じ世界に生きているということがどんなに心をなぐさめてくれるだろうと初めて思い至った。

私の頭に、学生時代の後輩の姿が浮かんでいた。彼はやはりこの世界で生きるにはあまりに不器用な人間だったけども、彼がちょうどそのようなことを私に云ったことがあった。
「ファンタジーよりも現代小説が好きなんです。自分の世界の延長に物語がある気がして」と。
そのとき私は彼の気持ちを十二分に理解することはできなかったけれど、今ならよく分かる気がする。

幼少期からもっぱらファンタジーを読んできた私にとって、現代とは空疎な時代に思えてならなかった。しかしその空疎な時代をいかに生きるかという姿を見てみたいと今は感じる。現代を生きるということの壁にぶつかってしまったからこそ、同じ思いをしながら生きている人間のありようを知りたい。


恋愛ひとつをとってみても、現代は多様性にあふれている。どうせならどうしようもない恋愛小説を読んでみたい。どうしようもない恋なんて、近代文学を読めばいくらでも出てくるけども、あくまでも現代を生きる人間がどのような恋をしてやぶれかぶれになったり、道を踏み外したり、思い悩んであくせくしたりするのかを見てみたい。トントン拍子に行かない方がおもしろい。
同年代の女性が主人公の物語も読みたいと思う。冴えないアラサーがいかに生きているのかを、エッセイではなく小説で読んでみたい。今はちょうど村田沙耶香なども出てきているし、そういう小説には事欠かないだろう。

 

今までは考えもしなかったことだが、これまでに抱いていた現代への苦手意識からようやく私は解放されようとしているのかもしれない。現代を生きるという壁にぶつかってはじめて、現代というものを見つめ直す糸口を掴めた気がする。それは自分自身を見つめ直すこと、そしてこの社会の一員としての自分というものを問いただすことに他ならない。
心地がいいだけの読書ではなくなるだろうけども、そうしたときはじめて私は現代という時代を生きることができるのではないかと思う。


そして図書館で本を借りるのではなく、古本でも良いから本を買って読みたい。振り返ったときに、「あのつらい時期をこの本たちと乗り切った」と思えるように。

出典という宇宙

出典厨というといかにも聞こえは悪いが、私は出典厨な人間だ。学生時代、恩師に注釈がきちんとしていない本は読むなと教え諭されてからは、学術書を手に取るときにはまず注釈をチェックすることにしている。


また本文中に出てきた漢籍や日本の古典などの引用は、できるだけ原典に当たるべく、図書館で古典文学全集を開くようにしている。物覚えは著しく悪い人間だけども、そうして地道な作業を繰り返しているうちに、記紀神話の神代の部分を覚えたり、古典の書名を覚えたりして、それが勉強するということの原点になっていると感じる。
一般書を読んでいても、気になったものはできるだけ原典に当たる。たとえば白洲正子の『古典の細道』などは謡曲集の蝉丸に当たった。

古典の細道 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

古典の細道 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 
謡曲百番 (新日本古典文学大系 57)

謡曲百番 (新日本古典文学大系 57)

 

 

こうした出典厨の姿勢が高じて漢詩を読むときにも必ず注釈を読む。漢詩は引用の宝庫だ。そもそも古典籍の引用なくして漢詩は成り立たないと云っていい。たとえば唐詩選に収められている盧昭鄰の『長安古意』では、

借問吹簫向紫煙 借問す 簫(しょう)を吹いて紫煙に向うは
曾経学舞度芳年 曽(かつ)て舞を学んで芳年を度(わた)れり
得成比目何辞死 比目を成すを得ずば何ぞ死を辞せん
願作鴛鴦不羨仙 願わくば鴛鴦(えんおう)と作(な)りて仙を羨まじ

とある。

この句には「列仙伝」にみえる弄玉(ろうぎょく)の故事をふまえている。むかし秦の穆(ぼく)王に弄玉とよばれる娘があった。簫の上手な簫史(しょうし)にほれこんだので、父の穆王はこれに娘を嫁がせた。簫史は妻に簫を教え、鳳鳴の曲を演奏させたところ、鳳凰が舞いおりるほどになった。穆王はために鳳台を作って二人を住まわせたが、数年間そこからおりて来なかった夫妻は、ついに鳳凰に随って、仙界へ昇天して去ったという。――高木正一唐詩選上 新訂中国古典選14』、朝日新聞社、1965、p39。

 と解説にはある。

 

この故事はたびたび漢詩に引用されているようで、他にもいくつかこの故事に基づく漢詩に行き当たった。そのたびに「ああ、あの故事から来ているのか」と知識が補強されていくのは楽しい。
漢詩を読む喜びは注釈をたどる喜びでもあるのだと感じずにはいられない。
その出典厨の私が愛好する本が、同じく唐代に記された小説『遊仙窟』で、岩波文庫版のものだと本文よりも注釈と影印本の分量の方が厚いというなんとも出典厨には嬉しい仕様になっている。

遊仙窟 (岩波文庫)

遊仙窟 (岩波文庫)

 

余以小娯聲色早慕佳期歴訪風流遍遊天下 弾鶴于蜀郡飽見文君吹鳳管秦楼熟看弄玉


わたしは年少のときから歌や女に心を惹かれ、美女との逢瀬にあこがれて、歓楽の場所をつぎつぎに訪ねて天下を遍歴しました。蜀郡では、「別鶴操(べつかくそう)」を琴(きん)で弾いて、文君(ぶんくん)のもとに通いつめ、秦楼で鳳管を吹いて弄玉の顔もあきるほどながめました。
――張文成作・今村与志訳『遊仙窟』岩波文庫、1990年、15p。

 

云わずもがな、この箇所も弄玉の故事を踏まえて書かれている。ちなみに文君とは卓文君と司馬相如の逸話になぞらえたものだろう。こちらも漢詩ではポピュラーに引用される故事だ。
私のような漢詩を専門に学んだことのない人間であっても、ひとたび出典の世界に魅了されると、漢詩がぐんと面白くなる。
他にも六朝詩でいうと曹植の詩などは『遊仙窟』はもちろん、唐詩にもたびたび引用されているし、ひとたび漢詩をひもとけば、その世界は点と点とをつなげて線になっていくように結びつけられ、広がってゆく。ここに知の醍醐味がある。

出典を探っていくことで知識は二倍にも三倍にも広がってゆく。その面白さをぜひ多くの人に知っていただきたい。

【お題参加】六朝詩からの卒業

今週のお題「卒業」

 

最近、『唐詩選』を読んでいる。

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読もうと思ったきっかけは、漢籍に詳しい恋人が唐詩選を勧めてくれたからなのだが、それまでは玉台新詠や文選が好きだった私にとっては、六朝詩こそが自分の好みに合う漢詩であり、唐詩にはあまり興味がなかった。

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 以前、彼に勧められて『李白詩選』を読んだときには、李白の五言絶句に魅了されたものだが、この一冊を読んでからはすっかり唐詩から遠ざかってしまっていた。

李白詩選 (岩波文庫)

李白詩選 (岩波文庫)

 

 華美な語彙を好む身としてみれば、貴族文化が花開いた六朝詩のロマンティシズムにはえも云われぬ魅力を感じていたし、それに比べて唐詩はいささか質実剛健なイメージがあって、味わい深さで云えば勝るけども、その味わいも枯淡として玄人好みに思えたのだ。

私には唐詩の良さはわからないとはなから決めつけていた。

しかしひとたび唐詩選を紐解いてみると、劉庭芝(りゅうていし)の「公子行」に夢中になった。

有名な一節を引いておくと、

古人無復洛城東 古人復た洛城の東に無く

今人還対落花風 今人還(ま)た対す 落花の風

年年歳歳花相似 年年歳歳花相(あい)似(に)たり

歳歳年年人不同 歳歳年年人同じからず

寄言全盛紅顔子 言に寄す 全盛の紅顔の子

応憐半死白頭翁  応(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁(はくとうおう)

 

――劉庭芝「公子行」

 

年年歳歳花相似 年年歳歳花相似たり

歳歳年年人不同 歳歳年年人同じからず

という対句を巡っては、以下の解説が付されている。

年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず」という対句がうかんできた。これまた不吉な予感がしたけれども、捨て去るにしのびず、「死生は天命というから、この詩句と何の関係があろう」といって、両方とも詩中にとり入れることに決心した。ところが、以後一年たたずして彼は、悪人のために殺されてしまったという。一節には、彼を殺したのは舅にあたる宋之問だとも言われる。作者がこの詩を発表しないうちに舅の宋之問に見せたところ、之問は、「年年歳歳」の二句をみて大へん気に入り、「是非ともこの句をわしにゆずってくれないか」といいだした。舅の申し出だから、むげにことわるわけにもいかず、これを承諾したが、考えてみると、やはり惜しい。あれこれと思案したあげく、一たん承諾しておきながらこれを拒絶し、後に自作として発表してしまった。二重に面目をつぶされた宋之問は逆上のあまり、ひそかに奴僕に命じて作者を土嚢で圧殺させたという。真偽のほどはうたがわしいが、かかるエピソードを生むほどに、この二句は有名であり、一篇中の名句として古来人口に膾炙している。

 

――高木正一唐詩選 上』新訂 中国古典選14、朝日新聞社、1965年、137 頁。

漢詩を読むのもさることながら、こうして解説を読んで語彙の出典を知ったり、 作者にまつわるエピソードを知ることができるのも大変楽しい。

彼にこの対句を見せたところ、「ああこの詩か」と云っていたので、漢文愛好者の間では本当に有名な対句なのだろう。

それから、かもめメンバーの竹雀氏が敬服する陳子昂の詩に私も惹かれたので載せておく。

晩次楽郷県 晩に楽郷県に次(やど)る

故郷杳無際 故郷杳として際(はて)無し

日暮且孤征 日暮 且(しば)らく孤征す

川原迷旧国 川原(せんげん)旧国に迷い

道路入辺城 道路辺城に入る

野戌荒煙断 野戌(やじゅ)荒煙に断え

深山古木平 深山 古木平らかなり

如何此時恨 如何ぞ 此の時の恨み

嗷嗷夜猿鳴 嗷嗷(きょうきょう)として夜猿(やえん)鳴く

 ここに至るまで読んできた宮廷詩人による応制詩(皇帝の詔勅を受けて作った詩)とは打って変わって無骨で無駄のない詩風だが、その情趣はいっそう深く感じられる。

他にも諸葛孔明など、歴史上の故事を織り込んだ詩も唐詩選には収められており、あたかも彼が一歴史家であったような風格すら感じられる。

現に解説によれば、

陳子昂の詩は、古体と近体とを問わず、共通して流れるものは、古風の力強い男性的な感情であり、それががっしりした骨組みをもって歌われるとともに、経史の学を学んだ人のみがもちうる思想をその内容とすることなどによって、南朝の詩や、当時における宮廷詩人たちのそれとはちがった特色を発揮し、やがては盛唐の李白によって継承され、完成される古風の道をきりひらいている。―― ――高木正一唐詩選 上』新訂 中国古典選14、朝日新聞社、1965年、260頁

 とある。

以前の私であれば、この良さはあまりわからなかったと思うのだけれども、唐詩選を頭から読んでいると、その斬新さと味わい深さは際立って感じられるのだ。

ちなみに竹雀氏は以前エッセイに陳子昂の詩を引いていたので、併せて紹介しておく。

 

まとめてみると、これまで六朝詩にこだわっていた自分にとって、唐詩選との出会いは衝撃的なものであった。より多くのバリエーションを持った詩の数々が収められたこの本を通じて、私は漢詩の奥行きを感じることができたし、まだまだ漢詩について学びたいという意欲も高まった。

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そこで図書館で漢詩の本を二冊借りてきた。

魯迅『物語・唐の反骨三詩人』と、岩波文庫版文選にも関わっておられる川合康三氏の『生と死のことば 中国の名言を読む』という本だ。 

物語・唐の反骨三詩人 (集英社新書)

物語・唐の反骨三詩人 (集英社新書)

 

『物語・唐の反骨三詩人』には先に挙げた陳子昂の他に、孟浩然と李白について書かれていて、今から読むのが楽しみだ。『生と死のことば』には漢詩だと白居易陶淵明などの言葉が収められているらしい。

こうして新たなスタートを切った気分で、これからも漢詩とは永く付き合って行きたい。彼からたくさんのことを学びつつ、私も成長していきたい。

 

追記メモ

年年歳歳花相似 年年歳歳花相似たり

歳歳年年人不同 歳歳年年人同じからず

については、川合康三『生と死のことば――中国の名言を読む』にも引用されている。

【お題参加】最近知った言葉

お題「最近知った言葉」

観楓(かんぷう)という言葉がある。紅葉狩りを指す言葉で、花見を指す観桜(かんおう)に対して観楓(かんぷう)と云うらしい。

この言葉を知ったのは三島由紀夫の小説『仮面の告白』だったと記憶しているが、もしかしたら『春の雪』だったかもしれない。

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 
豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

 

 いずれにせよ雅な言葉だなと感じる。

言葉を覚えると使ってみたくなるというのが人のサガというもので、先月私も「狂愛の戯れ」という詩に「観桜観楓」という言葉を使ってみた。

http://star-bellflower06.tumblr.com/post/182914909432/狂愛の戯れ

star-bellflower06.tumblr.com

 

 谷崎潤一郎は『文章読本』の中で和語の美しさを強調しているけども、漢語も充分美しい。 

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

 要は使い方次第というところなのだろう。

谷崎が記しているように、

漢字と云う重宝な文字のあることが、却って禍している

 こともある。 

谷崎は二字熟語などからなる新語を批判していて、私も二字熟語を用いすぎた文章はあまり好ましく思わないのだけれど、観桜観楓の言葉の美しさは、それが対称であること、また季節感を醸し出していること、花見と紅葉狩りという和風の文化に中国風のニュアンスを添えることの美しさにある。

おそらく観桜も観楓も、ちょっと古風で改まった場所で用いられる語なのだろうということも格調高さが感じられてなお良い。

 

それにしても、ひとつの言葉をとってみてもこれだけ語ることが多いというのは面白い。

また何かの折に気に入った言葉を見つけたらこちらでも紹介したいと思う。

本を読めないとき

読書が趣味の柱である自分にとって、精神的に本が読めない時間というのは苦痛を感じずにはいられない。読もうと思っても目が滑ったり、そもそも本を手に取る気になれないということも多々ある。
そんな状態で無理に本を読もうと思っても致し方ない。そういう時は潔くあきらめて本を読まないか、読んだとしても生活の本や自己啓発本、新書など、軽めの本にとどめるようにしている。


そんなときに心強い味方になってくれるのが図書館だ。
気軽に読める本をあまり家に置かないタイプの人間にとっては、図書館に置いてある新書や一般向けに書かれた仏教の本などが揃っているのはありがたい。それも返してしまえば家に置かずに済むし、どうしても手元に置きたい本だけを選んで書店で買えるというのもいい。
気に入らなければ途中で読むのをやめてもいいというのも図書館で本を借りるメリットのひとつだ。心置きなく失敗ができるというのは、メンタルが参っている状態のときはさながらセーフティーネットのように安心感を覚える。
そもそも図書館という空間自体ひとつのアジールセーフティーネットであると思えば、私はそのセーフティーネットに生かされてきたと云っても過言ではない。
もっとも今の状況を打開したいとは思う。もっとハードな文芸書をたくさん読みたいし、読書は小説を書く上での筋トレでもあるので、筋力が鈍らないようにしなくてはとも思う。


それでも今の状況を許容しなければどうにもならない時もある。焦って足掻いてもどうしようもない時もある。読書というのは基本的に長期戦だ。一日読めばそれきりで終わりというものではなく、読書意欲にもどうしてもムラが出てくる。
それをノルマを課して乗り切るストイックなタイプならいいのだろうが、私はどうにもそういうタイプではなさそうだ。どうしても読む日があったり、読まない日があったりを繰り返してしまう。

 

そういう時にも図書館は威力を発揮してくれる。
図書館から本を借りれば返却日が設けられている以上は否が応でも読まざるを得ない。それが軽めの本であれば一日で借りてきた本の大半を読んでしまうこともあるし、そうでない本も無理のないペースで借りているので、読み終えられないということはあまりない。
多少読書意欲が湧かなくても、図書館の本だと自然と手が伸びるから不思議だ。こうしてみると、私の読書生活には図書館が不可欠なのだなということをあらためて感じる。


今図書館から借りている本は、NHKの「趣味どきっ! 幸せになる暮らしの道具の使い方」で紹介されていた甲斐みのりさんの本だ。

幸せになる 暮らしの道具の使い方。 (趣味どきっ!)

幸せになる 暮らしの道具の使い方。 (趣味どきっ!)

  • 作者: こぐれひでこ,相場正一郎,野村友里,山本浩未,甲斐みのり,引田ターセン&かおり夫妻
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2018/11/26
  • メディア: ムック
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奇しくも先日借りた東郷青児の本にも彼女のエッセイが載っていて、不思議な縁を感じたのだが、乙女のロマンティシズムを感じる文章を読み、ノスタルジックな写真の数々を見ていると病みつかれた心が癒されていくようで、これも「今まさに出会うべくして出会った」本なのだなと思う。

東郷青児 (らんぷの本) (らんぷの本)

東郷青児 (らんぷの本) (らんぷの本)

 
つまさきだちの日々 (幻冬舎文庫)

つまさきだちの日々 (幻冬舎文庫)

 

私自身はそこまで懐古趣味はないし、下町にも純喫茶にもさほど惹かれるタイプではないのだけれども、彼女の「好き」という気持ちを濃縮した本たちは、それ自体がひとつの宝物のようで、今の私にはきらきらと輝いて見える。
自分の「好き」という気持ちにこんなにも素直になれたら、きっと世界はもっと美しく見えるのだろうなとも思った。私は自分の「好き」という気持ちを作品に落とし込むことで、自分の心の支えにしているところがあるけども、彼女はこの世界に「好き」なものを見出して、自分の「好き」なものがあふれているこの東京という街を心から愛している。
そういう彼女の姿は立派だなと思わずにはいられないし、心からなぐさめられているような気持ちになった。
これも図書館での出会いがなければ彼女の本に実際に触れてみようとは思わなかっただろう。あらためて図書館という場所に感謝したい。